「おい」
ザリザリと土を踏んで近づく音には気付かなくとも、声を掛けられればさすがに山本も顔を向けた。計ったかのようにチカチカと2度点滅して、薄暗くなった公園の外灯がようやく点る。
「獄寺…?」
突然現れた銀髪の少年に酷く驚いて、山本にしては珍しく言葉を詰まらせた。ばつの悪そうなその顔を見れば、自分がいかに今会いたくない人物であったのかは獄寺にもすぐ解る。
「おまえ、負ける度にそんな凹んでんのか?」
問われて、山本が口元に微かな笑みを作った。しかし、目は正直に気分を物語っていて暗い表情が拭えない。いつもの調子の良さが欠片もない、山本のこんな顔ははじめて見る。
「いや、そういうわけじゃねえけど」
言った後で山本は軽く深呼吸をした。じっと様子を窺う獄寺に困ったように眉を下げ、いつもの明るい笑顔を見せる。
「つーか、獄寺から話しかけてくるなんて珍しいよな?よく来んのここ?」
「別に」
見え見えの作り笑いにも、強引な話題転換にも一切付き合う気はなかった。切って捨てる一言で山本も何かを感じたのだろう、「そっか」と言ったきりたちまち勢いをなくした。
先ほど寄ったコンビニの袋をベンチに置いて、山本の隣に座る。誰が逃がしてやるかと、獄寺は逸れた話題を戻した。
「てめぇにしちゃ、相当堪えてんじゃねーか」
俯いた横顔が溜息混じりに笑う。少しだけ、言葉を探すような間が開いた。
「…そりゃ、大事な試合に負けちゃったからな。勝ったら次、決勝だったのに」
そう言って笑う顔が試合後のそれと同じで、獄寺は苛立って眉を顰めた。
「そしたら次の東部大会にも出れて、全国大会も夢じゃなかったんだよな……なんて、もう言っても仕方ねぇけどな!」
作り笑いを添えた下らない言い逃れに舌打ちをする。
どこまでも本音を出さない、山本の態度に獄寺は腹が煮えた。
「ヘラヘラ笑いやがって、馬鹿が無理してんじゃねえよ。おまえが引き摺ってんのはそこじゃねぇだろうが」
蝋燭の火が消えるように、フッと山本の顔から笑顔が消える。瞬きを忘れた黒茶色の瞳を見つめ返して、獄寺は静かに言い放った。
「最後の敬遠だろ」
「…」
息を詰めた山本が瞬時に顔を強張らせた。ぐっと奥歯を噛み締めているのが伝わってくるようなその表情を、獄寺はただ黙って見ていた。
長い沈黙の後、俯いて瞼を伏せ、重い溜息を吐きながら山本は小さく本音を吐き出した。
「…っくしょう…」
「……」
2アウト、ランナー1・2塁。
おそらく次の3番打者で勝敗は決まるだろうと、あの瞬間、誰もがそう思っていた。スッと身をずらしたキャッチャーへ、外へ大きくずれたボール球が投げられるまでは。
それは信じ難い展開だった。
4番打者を後に控え、まして四球は満塁を意味するのにも関わらず、山本は敬遠されたのだ。
決勝への駒を進めるだけの試合ではなかった。夏の県大会2位までが、次の東部大会の出場権利を得られるからだ。決勝へと勝ち進むことは、万年弱小だった並盛中にとって非常に大きな切符を手にすることでもあった。
その肝心な場面で、何一つ力を発揮することが叶わなかった。緩く首を振ってバットを置き、一塁へと向かう彼の足取りの重さは量り知れず、会場は満塁で4番打者を迎えるという劇的な展開に沸きあがった。
山本と勝負するより、満塁でも4番打者と勝負することを選んだその判断は、試合結果を見ても確かに賢明だったのだろう。
その日、4番打者は本塁打を1度打ったものの3度凡退されたのに対し、山本は一度も凡退することなく出塁、得点に繋がる痛恨のヒットに加え、本塁打を2度も放っていた。
投手との相性の問題はもちろんのことだったが、しかし、それも踏まえても相手チームの目にはこうとしか映らなかった。
『並盛中一番のスラッガーは、4番打者ではない』
勝負強い山本は打っただろう。ランナーを二人還せるだけの…否、自分をも生還させるだろう球を。東部大会の出場権利が掛かった試合で、相性が悪いと解っている打者相手に真っ向勝負を挑むのはどう考えても得策ではなかった。
だから、勝負を厭われた。
相手の、見事な作戦勝ちだった。
試合に負けたこと以上に、山本の心を重くしたのは他でもない、チームの命運が掛かったあの場面で勝負を避けられてしまったことだ。
プロの世界ではない。何事も正々堂々を美徳とする少年野球では敬遠自体が珍しく、山本もこれまで野球をしてきて今回のようなあからさまな敬遠をされたのは初めてのことだった。
毎日欠かさぬ朝夕のトレーニング。ブロック予選を勝ち抜いて県大会出場が決まれば尚のこと、部の練習は日曜日にも及んだ。暑いグラウンドでの厳しい練習を物語る、陽に焼けた肌。酷使して筋張った腕、手首の腱を守って施されるテーピング、まめだらけで少し固い手のひら。
…全ては何の為に?
実際、山本が本当に打ったかはわからない。打ったとしても結局はアウトになったかもしれない。今となっては勝負されなかったことを悔しく思っても所詮負け惜しみでしかなく、渾身の力で4番を振った先輩を思えばこそ山本は本音を出すことなどできなかった。
「そんだけ相手がおまえにビビったんだろ」
「…」
「試合は負けても、勝負には勝ったじゃねえか」
「…」
野球はチームプレーであって、個人プレーじゃない。こんな言葉、何の慰めにもならないことはわかっていた。頭ではわかっていても、ルール程度しか野球を知らぬ自分が他に慰めの言葉など思い浮かぶはずもなく、本音を引き出しても言葉でのフォローが上手くいかない自分に獄寺は溜息を吐いた。自身の苦手分野を改めて思い知る。
見れば山本は俯いたまま、その横顔はまだ暗い。ぬるい風が柔らかに吹いて山本の黒い髪を撫ぜた。
「―――…」
刹那の郷愁。
夜風の香りに獄寺はふっと記憶に迷い込んだ。
ふわりと鼻を掠める木々の匂いが、胸を刺す棘だらけの過去に触れる。公園に満ちる緑を纏った風は、今はない城の庭園を思い出させた。
思い出の曲を弾いた初めての演奏会。凄まじい吐き気と眩暈で、原形もなく乱れ崩れてしまった旋律。
庭園の隅に隠れて悔し泣きをする弟の髪を、無言のまま、少女の小さな手が優しく撫で続けた。
誰のせいだと毒づきながら、それでも、髪を撫でる手はとても心地よくて―――
沈黙の中、サラサラと揺れる髪に見入って、獄寺は無意識に右手を伸ばしていた。幼い子供の頭を撫でるように、くしゃりと短い髪に触れる。短いゆえに逆立った髪は見た目よりも驚くほど柔らかく、滑るような感触は撫でていて気持ちが良かった。
「…」
頭を撫でる手を甘受していた山本が、ゆっくりと顔を上げた。それと同時に、何故か山本の髪を撫でている自分にハッとして、獄寺が慌てて手を引っ込める。
(何してんだオレ)
沈んだ色の消えた黒茶色の目が、不思議そうに獄寺を見た。山本の頭を撫でるなんてどうかしている。妙な気恥ずかしさに居た堪れなくなって、獄寺はコンビニの袋を山本へと放り渡すと急いで立ち上がった。
「ソレ、食う気が失せたからやる。…少しは気も紛れるだろ」
歩き出す獄寺の後ろで山本が袋の中を覗き込んだ。
新作の焼き菓子にチョコレート。一緒に入っているパックの飲み物に山本は目を見張った。
食う気が失せたから?
その中に、いつも飲んでいるお馴染みの牛乳が入っていれば、元より誰の為に買ったものなのかなんて一目瞭然だった。
「獄寺ッ!!」
大きな呼び声に驚いて振り向いた瞬間、衝撃と共に獄寺の視界が遮られた。温かな匂い、温度、感触。一瞬何が起こったのかわからなくてきょとんとする。駆け寄る山本に抱きつかれたのだと理解するまでに数秒を要した。背中に回った手にかぁっと熱くなって、獄寺が逃れようと腕の中で身を捩る。
「なっ、なにしやがんだてめえ!放しやがれ!!」
言っても山本は聞かなかった。それどころか身を捩るほどに腕の力は強くなり、きつく抱き竦められていく。怒りよりも酷く恥ずかしかった。安らぎを誘う肌の匂い、首筋の温かさ。身内にだってこれほど強く抱きしめられたことはない。
「放せっつってんだろッ!!気持ち悪ぃ…んだよッ!!」
密着する際から手で身体を押してもビクともしない。
「くそ…ッ」
体格差があるだけに力の差も大きい。力任せは無駄に体力を消耗するだけだと、獄寺は諦めてもがくのを止めた。何でこんなことになってしまったのかと首を捻りながら、ドン!と拳で強く山本の背を叩く。
「おい!優しくしてやりゃ、構わなくなるんじゃなかったのか!?」
夕暮れの帰り道で、山本は確かにそう言っていたのだ。だとすれば今の行動は矛盾甚だしい。…というより、矛盾どうこうを通り越して何かおかしい。
あれは…、と耳の後ろで山本がようやく声を発した。
「らしくないくらい、優しくなっちまったらって、意味で…」
そう言ってすぐに、山本は緩く頭を振った。
「いや、もうワケわかんねえ…獄寺だったらなんでもいいのかも」
「!?」
回された大きな手が背中を撫でていく。耳に山本の温かな頬を感じ、程度の増した接触に獄寺は眉を顰めた。耳の後ろで、山本の声が響く。
「だってこんなの、堪んねえよ…」
すり、と耳に頬を擦り付けるその仕草から自然と連想する。まさか、と考えて獄寺は信じられない気持ちになった。
(コイツ、甘えてんのか?…オレに?)
気が沈んだあとだ。わからなくはない。だが甘えるにしても、選ぶ相手を間違っていれば、程度も超えている。
「おい、マジでいい加減にしろ」
「…」
抱きしめる腕の力が少し弱まって、ようやく解放されると獄寺は安堵の息を吐いた。しかし、僅かに身体を離したものの、今度は山本の手が二の腕を強く掴んで離れない。
「な…っ!?」
腕を掴んだまま、山本が少し身を屈めて顔を覗き込んだ。唇が、自分のそれへと近づいてくるのがわかって、獄寺は怪訝に眉を寄せた。
唇が触れる寸前、咄嗟の防衛反応。
頬を殴る鈍い音が空に響いた。
「ッつ…」
「目ぇ、覚めたかよ?」
指輪付きの容赦ない殴打で、山本の口角から血が滲み出る。親指で血を拭い、眉をつり上げた獄寺を見た山本は、短い沈黙の後に「…悪い」と零して視線を落とした。
獄寺は思いあぐねた。これもまた、山本が時折みせる冗談の一環なのか。
「二度と、オレに触んな」
低く言い捨てて、獄寺は逃げるように公園を後にした。
身体に残った感触が、熱を持って消えない。強く掴まれた両腕部分を摩りながら、自宅までの道のりを足早に歩いた。
オレには関係のないことだと、一度は無視して向かったコンビニエンスストア。コーヒーを選んでいてふと、山本がいつも飲んでいる牛乳が目に入った。
…オレには関係ない。そう何度心に唱えても、らくしなく落ち込んだ姿が心に過ぎって、コーヒーへと伸ばす手が躊躇した。
頭を擡げたのは、山本に対する奇妙な感情。
以前は話すのも嫌なくらいに嫌悪していたのに。今だって嫌いなのに変わりはないはずなのに。
(どうかしてる)
男相手に甘えて、理性失って迫ってきた山本も。
こんな後で、次に会ったらどんなふうに接したらいいんだろうなんて…真剣に考えてる自分も。
(本当に、どうかしてる)
(2007/09/29 up)
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