野球さえあれば他には何も要らないと思っていた。目指すはプロ野球選手、果ては大リーガー。わかりやすく壮大な夢は幼い頃から全く変わっていない。
しっかり3食栄養を摂って、よく食べ、よく身体を動かし、よく眠り、身体一番に大事に備えてきたのも全ては野球のため。
野球に傾倒して以来、ただそれだけを考え、その為だけに生きてきた。野球が出来なくなればもう終わりだと本気で思うくらいに。
野球ほど頭を真っ白にして没頭できるものはない。向上心を胸に、目標に向かい、心身を鍛え、技を磨き、仲間との信頼関係を養っていく。ゲームの面白さだけではない、全てがこの心を魅了して止まない。
野球の名の元、集まってくる者は多種多様だ。長打が打てる者、盗塁が巧い者、バントに長けた者、守備範囲が広く固い者…皆それぞれ取り得があればもちろん弱点もあって、ひたすらに自身の武器を磨く者もいれば、弱点を克服して万能を目指す者もいる。個々の長所を生かし弱点を補いながら、信頼のもと、仲間同士助け合ってチームを勝利へと導いていく。苦難を共にするから絆だって生まれる、勝敗も心から分かち合える。人間関係一つで拗れることもあればもちろんいい事ばかりではないけれど、チームプレーの魅力は何物にも代えがたい。
戦場は闘争本能も満たしてくれる。投手と打者の無言の駆け引き。窮地に訪れた逆転チャンスの、あの緊張とプレッシャーの凄まじさ。ぞくぞくと身を震わせる高揚感。それを乗り越えた先にある、劇的な起死回生の瞬間。
本当に、なんて素晴らしい世界なんだろう。
溢れんばかりの才能を手にひたすら野球だけを見つめ、少年は他には目もくれなかった。
何も考えなくていい、きれいな一本道。ただ、この道さえ真っ直ぐに走っていればそれだけで。
これほどに情熱を注げるものは他にないのだから。こんなにも自分を夢中にさせてくれるものなんて、他には何ひとつ―――
だが、人生何が起こるかわからない。
(あと2日か…)
野球以上に、心を奪って放さないものがこの世にあったなんて。
(…獄寺に会いてぇ)
野球部の夏期強化合宿が始まって3日目の夜だった。一日約7時間練習というハードスケジュールはあと2日続く。3日後は昼までの練習で夕方には並盛に帰れる予定だ。以前の自分ならば、対校試合も組まれた野球漬けの合宿を誰よりも喜んでいただろうに今回ばかりは違った。暑い中の厳しい練習に嫌気が差したわけでもなければ、もちろん野球を嫌いになったわけでもない。
ただ、練習が終わって夕食時になると無性に家に帰りたくなってしまうのだ。ホームシックとは少し違う、そう思わせるのは現在自宅で起きている奇跡のせいに他ならない。
何の運命の徒か、獄寺が山本家に料理修行に訪れるようになってから、山本にとってはまるで夢のような日々が続いた。
嫌いだと言われ、冷たく睨まれ、一体何度突き放されてきたのか。それが今はどうしたことだろう。本来ならば夏休み中なんて顔を合わせることも難しいだろうに、夕方になれば向こうから家にやって来て有ろう事か夕食を作ってくれる。さらには一緒に食事をした後で勉強まで教えてくれるのだ。
好きな子に毎日会えて、話せる。それだけでも幸せだというのに何とも至れり尽くせりなこの展開。本当に、父親には何度感謝したことかわからない。
幸せに浸るあまりすっかり失念していた山本が夏期合宿のことを思い出したのは、合宿が始まるたった2日前のことだった。部室で「合宿」という言葉を耳にした瞬間、ダァンッ!と両拳をロッカーに叩きつけて他の部員を酷く驚かせた山本は、「忘れてた…」と無念そうに呟いてズルズルと膝を折った。
獄寺の料理修行は夏休みと共に終わると聞く。夢の時間は一ヶ月程だ。なのに、そんな貴重な期間にどうしてこんな山奥へ…
市街の喧騒から離れて野球に集中させたいのはわかる。新鮮な山の空気を吸いながら、寝食を共にして仲間同士の親睦を深めようという意図もわかる。
しかし、しかしだ。
こんな僻地まで来たせいで獄寺の貴重な手料理を5日も食べ逃す破目になってしまった。
せめて、校内合宿であれば夕食時だけ無理矢理にでも家に飛んで帰ったというのに。
風呂も終わって就寝までの自由時間。これから始まる夜のイベントに向け、同室の部員がいそいそを部屋を出る準備をしている中、山本は濡れた頭にタオルを被ったまま部屋の隅でカチカチと携帯を弄くっていた。
画面に映っているのは調理に勤しむ銀髪の少年だ。頭に裸と付かなくとも、やはりエプロンは男のロマンの象徴なんだとしみじみ思う。彼に貸しているエプロンは黒とモスグリーンの2種でどちらもとてもよく似合っている。跳ねる天ぷら油と格闘していたり、小皿を手に味見をしている姿など、どこの新妻かと見紛ってしまうそれは他では決して見られない貴重画像だ。夏場の厨房の暑さに耐えかねて髪を括っている一枚などは、うなじを濡らす汗までもがばっちり写っている。
(…すげぇかわいい…)
風呂のほてりが甦るように頬が熱くなる。
入手した計5枚の画像は隠し撮りではなく、ふいを狙った上で堂々と間近で撮ったものだ。ゆえに当然、非常に写りの良いこれらの画像は、夕食の前後に獄寺の手によって確実に消去されたものだった。ならば何故こうして手元に画像が残っているのか。それは、宿題中に脱線して携帯の説明書を読んだ山本がメモリーカードの存在を知ったことに始まる。
複雑なボタン操作が苦手で機械には少し弱い山本も、そこに獄寺が絡めば不得手なツールも何の事はない。途端にフル回転した山本の脳は、付属品にあった『miniSD』と書かれた小さなカードを手にしてから『コピーした画像をカードに移す』という作業をたった1分でものにしてしまった。
綱吉に見せるための一枚と称して堂々と撮りにいく。目の保養にするだけだから許してな?と少し後ろめたい気持ちを胸に、撮った画像のコピーを移してカードを引き抜く。元の画像は消されるからまた撮れる。綱吉に見せる一枚、が出来るまで。
だしに使って実に申し訳ない綱吉には、次に遊んだ時に撮った中でもとびきりの一枚を見せて許してもらおう、などと勝手な事を考えたりして。
もちろん獄寺に見つかれば怖ろしいことになるのはわかってはいるが、リスクは覚悟の上だ。あんなにきれいで可愛い子が、すごく好きな子が、厨房で汗だくになって動き回っているのにどうして撮らずにいられようか。
心の誓い通り、目の保養以外には使っていない。いやらしいことなどには断じて使っていない。野球の神様にだって誓える。
ただ、寝る前に目の保養をしすぎたせいか、少しアレな夢を見てしまったことはあるけれど…それは不可抗力だと声を大にして言いたい。
こつんと携帯の画面を額に押し付けて、山本は小さく息を吐いた。
(相当ヤバイよな、俺…)
気持ちを落ち着かせる暇もなく、状況も後押しして自覚した気持ちはどんどんエスカレートしていく。ずるずると、まるで蟻地獄に嵌っていくよう。
額から離して画面を見ると、料理の味見をして少し首を傾げている実に可愛らしい一枚が目に入った。ステンレス鍋の中身はお馴染みの味噌汁だ。
(あー…、獄寺の作った味噌汁が飲みてえ)
具は肉とカボチャがいい。あれは最高に美味かった。
「おーい山本、行こうぜ?」
気付けば部屋には一人だけになっていた。よし、と山本は頷く。あとはこの最後の一人に言伝を頼めば、何の邪魔も入らない、一人きりの時間ができる。
「俺ちょっと家に電話したいからさ、先輩に先に始めてて下さいって言っといてくんね?」
「電話?いいけど…なに、おまえの携帯、電波あんの?」
「うん、3本」
「まじで?すげぇじゃん」
驚きの声を上げつつ、部員は持っていた部屋の鍵を台の上に置いた。
「まぁ、そんじゃあ先に行っとくけど早くこいよ?鍵、ここ置いとくから戸締りよろしくな」
「おう」
山本はニッと笑って手を上げた。
就寝までの自由時間といえば大体が各部屋でカードゲームなどの遊びに興じるのだが、今日のこの時間ばかりは皆、部屋を出て野球部主将の部屋へと集まることになっていた。監督や付き添いの教員が2時間ほどこの宿を離れるその僅かな隙を狙って、一体そこで何が行われるのかというと。
並盛中学野球部の親睦を真に深める極秘イベント―――有料チャンネル鑑賞会。
去年初めて参加した山本には大変衝撃なイベントだった。ああ、皆こうやってそっちの勉強していくのな…と感慨深く思ったことが記憶に懐かしい。
チームの親睦を深めるのは実に大事なことだと思う。そっちの勉強ももちろん興味があるし、ヒートアップした先輩の話を聞くのも凄く楽しい。参加したい気持ちは山々だが、しかし今はそれを蹴ってでも優先したいことがある。
手に持った携帯電話をジッと凝視する。
合宿3日目。イコール、獄寺を断たれて3日目。
獄寺の声が聞きたい。少しでいいから何か話したい。
山にいるだけに部員の持つ携帯の多くは圏外になっている。圏外を免れているのはとある一社の携帯を使っている者だけだったが、それでも電波はさほど良くないと聞く。なのにこの携帯はこの部屋でのみ、すこぶる電波が良い。まるで大きく背を押されているようだ。
他の部員がいる前ではさすがに電話はしにくい。こうしたイベントの力を利用しなければ、部屋で一人きりの時間は作れないだろう。
チャンスは今この時しかない。
(その前に獄寺が出てくれっかが問題だけど)
履歴から獄寺の名を探す。掛ける前に、大きく深呼吸をした。
…余計なことさえ考えなければ、片思いというものは思う以上に楽しい。
向こうにそんな気持ちは欠片もないことはわかっていても、目が合っただけで胸が跳ね、向こうから話掛けられただけで心が躍ってしまうのだから相当なものだろう。それこそ一瞬の笑顔に目を奪われて、きゅうっと息が止まってしまいそうになるほどに。
料理修行が始まって一緒に過ごす時間が多くなったぶん、刺々しかった獄寺の態度も以前と比べれば驚くほど丸くなり、同時に冷えていた彼の口調にも今までになかった温かさを帯びるようになった。顔を合わせるだけで、理由もなく嫌な顔をするような事もない。「慣れ」がさせたことなのか、彼の言っていた「意識改革」の結果なのかはわからないが、酷く嫌われていたどん底状態を知っていればこそ、ここ最近の彼の変化には激しく心を揺さぶられてばかりだ。
傍にいることも、話すことも。許されることが少しずつ増えてくるにつれ、自然と淡い期待を抱いてしまうことが多くなった。
解っていた。その気のない獄寺が、男同士の奇異な恋愛関係を受け入れるはずがない。それが当たり前で、おそらく今がベストの状態で、獄寺にとっては現状で十分なのだ。本当に獄寺のことを考えてやるのなら、黙って今のまま友達としていてやるべきなのだろうということも、彼の態度から見てもよく解っていた。
しかし悩み考えた果てに、いつも通りに振舞って友達でいることに努めても、心の隅では愚かな期待を抱いている。
どうやっても好きな気持ちは止まらない。欲望もエスカレートしていく。肝心な現実からは目を伏せて、膨らんでいく気持ちに身を任せてずっと自分の首を絞め続けている。
いつの日か、心を裂く日がくるとわかっているのに。
そして今、この瞬間も。
カチ、と緊張気味にボタンを押すと画面に獄寺の携帯番号が流れていく。ツ・ツ・ツ、と3拍置いてコール音が始まる。コール音は5回目で途切れ、やけに静かになった向こう側から三日ぶりの気だるそうな声が聞こえた。
『…ハイ』
(出た!!)
あ…、と発しながらわざわざ居住まいを正して山本は正座をした。
「獄寺?今、ちょっといい?」
『んだよ、何の用だ?』
耳にくすぐったい声だ。相変わらずの口調が嬉しくてつい口元が緩んでしまう。
「いや、元気にしてっかなぁと思って」
『てめぇ、用が無ぇんなら切んぞ』
「あーちょっと待って頼む!ちょっとだけ!そっちがどんな具合か気になっちまってさ」
『具合?』
訊ね返す声にホッと胸を撫で下ろす。せっかく出てくれたのだからもう少し粘って話したい。だって3日ぶりなのだ。
「俺いねーから、夕方、オヤジと二人じゃん。うまくやってけてんのかなぁって」
『?…別に何も変わんねぇよ、大体いつもメシ作ってる時は親父さんと二人だろうが。携帯持って邪魔しに来る奴がいないぶん、調理も捗ってんじゃねえの』
獄寺の長い返答にニヘっと笑う。声が聞ければ今はもう嫌味ですら嬉しい。
いつからか、獄寺は山本に対して「オッサン」と言っていた山本の父の呼び名を「親父さん」と改めるようになっていた。料理を教えてもらう内に敬意が芽生えてきたのだろう。「あの」「すいません」などで代用してきた呼びかけ時にも、今ははっきりと「親父さん」と呼ぶ。父親に馴染んできた証拠でもあるその些細な変化は、山本にとっても実に嬉しいことだった。
「オヤジ元気にしてる?」
『そういうことは自分で電話して確かめろ。とりあえず死んでねえよ』
その物言いに笑って「そうだな」と返す。逆に父親に獄寺の様子を聞いてみるのも面白いかもしれない。
「じゃああとで電話してみっかな。なぁ、そんで今日は何作ったんだ?」
『あ?別に何でもいいだろ…それよかおまえ、いつ帰ってくんだよ?』
語尾の、どこかげんなりとした声色に心臓が跳ねた。言外に漂う意を察すれば本日のメニューがわからなかった残念さも一気に吹き飛んでいく。
質問から考えても、強ちこれは自惚れではないはずだ。
「あれ…、早く帰ってきて欲しい、とか?」
どくんどくん、と胸が騒ぐ。どうしたんだろう、と考える。
(一人でメシを食うのが嫌だとか?)
そんな可愛い事を言われたら俺、どうしよう。勝手に膨らむ想像にドキドキとしながら、正座した膝の上でぎゅっと拳を握る。
『おまえがいねぇから後片付けがクソ面倒くせぇんだよ!』
(あぁ…)
一瞬の儚い夢だった。そういうことな、と山本はガックリと肩を落とした。
電話の向こうでは『皿は割れるし勝手もわかんねぇし』と可愛げの欠片もない返答が続いている。理由はどうあれ、帰りを求められているのには変わりなくて、それは素直に嬉しいと思う。
「帰んのは明々後日だから、あと2日の我慢だな」
そう教えると『あと2日もかよ…』という獄寺の溜息が聞こえた。短く空いた間にふと、小さな頼み事を思いつく。
「…なぁ、俺が帰る日のメシなんだけどさ」
『メシ?』
(これくらいは、言っても別におかしくないよな?)
自身に問いかけながら、微妙な距離を推し量る。
「肉とカボチャのさ、味噌汁作ってくんねーかなって…あれ、すげぇ美味かったから」
『…』
夢見がちな過ぎた要求だっただろうか。顔が見えないから余計に不安になる。もしかしたらちょっと怪訝な顔をされているかもしれない。無音の空気にひやりとして唇を噛んでいると『おまえなぁ』と獄寺の呆れた声が聞こえてきた。
『メニュー考えてんのオレじゃねえの知ってんだろ、そういうことは親父さんに言え。…とりあえずそれは明日言っといてやる』
「あ、ああ!ありがとうな!」
安堵と同時に胸が熱くなって一気に浮上した。自分との温度差は歴然でも、こうして優しく返されると嬉しくて堪らなくなる。
『風呂入りてぇから、もう切るぞ』
「あぁ、ごめんな?そんじゃ、おやすみ」
『……じゃあな』
通話が切れても幸せの余韻はじわじわと続いた。すごく嬉しい。鑑賞会の前半戦を蹴って電話して本当に良かった。あと二日、どんなに練習がキツくても全然頑張れる気がする。
頬も緩みっぱなしのまま、ぱたん、と携帯を閉じて顔を上げた山本は次の瞬間、怖ろしい光景を目にしてビクリと身体を震わせた。
薄く開いた部屋のドアの隙間に、じっとこちらを見つめる顔が縦に3つ並んでいる。肝が潰れるとはまさにこのことだ。真夏の恐怖体験さながらの光景に心臓が凍りそうになった。
「今の…、聞いてた?」
山本が青ざめて訊ねると、おそらく先輩に呼んでくるように言われて来たのだろう、同室の部員3名は無言でジッと山本を見つめたまま揃ってコクリと頷いた。
込み上げる恥ずかしさに堪えて「い、いつから?」と続けて訊くと、一番下にいる少年がモノマネ混じりにボソリと答えた。
「『あれ…、早く帰ってきて欲しい、とか?』から」
「〜〜〜っ!」
(そこ、一番聞かれたくないところじゃね!?)
耳まで真っ赤になった山本を更なる恐怖が襲う。ひゅっと顔を引っ込めた一番上の少年が、廊下の奥へ高らかに報告した。
「山本が女に電話してましたーーーッ!!」
「ち、違うんだって!!」
今更慌てても時すでに遅し。これから起こるだろう詰問攻めが目に浮かぶようだ。鑑賞会を二の次にした代償は大きい。
山本の予想通り、「よぉし今すぐ連れてこい!!」という3年主将の、至極ウキウキとした命令が廊下に響いた。
(2007/11/04 up)
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