カラカラカラ、と引き戸の滑る音を聞いて剛は鯛を捌く手を止めた。竹寿司の暖簾を潜る、5日ぶりの息子の笑顔に自然と目を細める。
「ただいまー!」
「おう、おかえり武!どうだった合宿は?」
 ドサっと5日分の大きな荷物が地面に沈む。服の胸元を引っ張ってバタバタと隙間に風を送り込む息子は、暑い中を走って帰ってきたらしく汗だくだった。
「うん、すげぇ楽しかった!あ、オヤジ…獄寺は?」
 弾む呼吸を落ち着けながら「もう来てんの?」と、何やらそわそわと店の奥へと視線を遣る。
「ん?ああ、厨房にいるぜ」
「へへ、ちょっと行ってくる!」
「おぉ…」
 父との話も早々に切り上げて嬉しそうに厨房へと駆けていく息子の後姿に、剛はふと親離れの寂しさを感じた。去年はもっと色々と話してくれたものだったのに。
(…まぁ、武ももう14だからなぁ)
 オヤジオヤジと甘えてくれる年頃でもない。まだまだ親の助力は必要でも、程よい距離から見守ってやらないといけない難しい時期だ。
(こんなことくらいで親が寂しいなんて思ってちゃいけねぇやな?)
 微かに苦笑いをして鯛を捌く手を動かす。哀愁漂う店内に再び心地よい引き戸の音が鳴って、剛は顔を上げた。まだ仕込み中との貼り紙をしているはずだが、夕方のこの時間帯に来るといったらお客ぐらいしかない。
 えらくせっかちなお客さんだな?と目を遣ると、暖簾を潜ってきたのは目を見張るような美女だった。

「…ここに、隼人が来てると聞いたのだけど」


*****


 食材の下ごしらえは終わった…ここからが勝負だ。獄寺は顔に掛かる前髪を無造作に掴んで頭の天辺に持ってくると、気合十分にヘアクリップで留めた。
 剛はいない。一度教えた料理は次からは一人で作らせるのが基本だった。教えられた事を思い出しながら、時に迷い、また失敗を重ねて学んでこそ本当に物になるのだとは剛の論。剛はそうして作らせた結果を最後に見定める。褒めるところは褒め、失敗があればその原因を教え、その上でこうしたらもっと良くなるとのアドバイスや、手直しの仕方などを教えていく。付きっ切りではなく、一度教えれば後は背中を叩いて好きに任せてくれる、こうした剛の教え方は獄寺の性にとても合って好ましかった。
 ただ、それでもやはり何度も経験を積まねば上達しないのが料理の難しいところでもあり…今日の料理はその典型とも言えるものの一つだった。
 冷水と卵を混ぜたものに薄力粉を入れ、氷で冷やしながら箸で切る様に慎重に溶いていく。衣に気泡を持たせるように、且つ、混ぜすぎないように。サクッとした衣に仕上げるためには、粘りの原因であるグルテンの発生を極力抑えなければならない。良く冷やし、混ぜすぎないこと。これが重要だ。
 暑い厨房の中でグルテンの発生をより抑えるために、水や卵、果ては粉やボウルまで冷やした。もちろん食材も忘れずに。海老、茄子、ししとう、カボチャ…今日のメニューは色鮮やかな天ぷらだ。
(さすがは10代目、天ぷらとは渋い…オレ、間違ってました!)
 衣を作りながら獄寺が心中で呟く。肉じゃがなんてもう古い、時代は天ぷらだったのだ。しかし、好みの食材に衣をつけて油で揚げるだけというこの調理法は、そのシンプルさゆえにかなりの手練を要する。剛のアドバイスを以ってしても全く上手く出来やしない。
 おそらく口ではなかなか説明の仕様がない、経験でしか覚えられない絶妙な感覚があるのだと獄寺は思う。現に剛が作る天ぷらは、獄寺のように粉やボウルまで冷やすような面倒な手間をかけずとも、実に見栄えの良い美しい仕上がりを見せる。余分な衣を切る感覚や、揚げている食材を返す頃合、揚げ油から引き上げるタイミング…端で見ている獄寺が思う感覚と、実際に調理してみせる剛の感覚にはいつも微妙な差がある。それは経験が生む差なのだろう。剛が作れば熟練した腕前が如実に表れる。同じ材料、同じ条件、同じやり方で獄寺がどれだけ真似て作ってみても、剛と同じものは作れない。獄寺の目には、剛は魔法の手を持っているようにしか見えないくらいだ。
 レシピ通りでは到底辿り着けない、修練を積み重ねることでしか得られない感覚的技術を要するこの料理。
 さすが、次期ボンゴレともなると求めるもののレベルが違う…だからこそ遣り甲斐がある。必ず物にしてみせると獄寺はグッと菜箸を握った。 
 獄寺の料理修行の噂を入手したリボーンが綱吉と共に竹寿司を訪れたのは、山本が合宿へ行った翌日の事だった。剛に呼ばれて寿司をご馳走になりに来たらしいことからも噂の出所は考えるまでもない。右腕を目指して日々奮闘する不良少年のエプロン姿を前に、一体何が起こってこんなことになったのだろうと、まるで珍奇なものでも見るような視線を注ぎながら、訪れた二人はしばし無言になった。

『ごごご誤解です10代目!!これはいつか10代目に美味い肉じゃがをご用意できるようにと…!!』
『あの……オレとしてはむしろそれが間違いであって欲しいんだけど』
『おまえはツナのヨメにでもなる気か』
『な、何言ってんスかリボーンさん、これは右腕の必須スキルなんスよ!』
『そんな必須スキル聞いた事ねーよ』
『ていうかオレ、肉じゃがってそんなに好きじゃないけど…何で肉じゃがなの?』
『え…?』

 あくまで隠れスキルとして時が来るまでは秘めていたかったが、こうしてバレたことで幸運にも貴重な情報を得ることが出来た。綱吉の好きな和食は肉じゃがではなかったのだ。思い込みだけでリサーチを怠るなんて何たる失態か。深く反省した獄寺はそれからというもの、面目を取り戻すように天ぷらの研究に邁進した。
(見ていてください10代目!オレ、最高の天ぷらをお出しできるようになってみせます)
 衣良し、油の温度良し。天ぷらが再び夕食のメニューに組まれた今日こそ、特訓の成果を見せるときだ。
 だてにこの4日間、朝昼と、天ぷらと名のつく料理を作って平らげてきたわけではない。野菜の他、練習用に使われた味のりは数十枚にも及ぶ。山本がいたなら大量の揚げ物をまたパンに挟んで持たせてやったというのに、合宿で不在だったために全て一人で片さなければならなかったのが少々辛かったが…おかげで随分とコツを掴んだ。
(ったく、肝心な時に役に立たねぇ奴だぜ)
 チラと厨房の時計を見る。今朝送られてきたメールが本当なら、その山本もそろそろ帰ってくる時間だろう。もちろん注文の味噌汁はすでに作ってある。あとは天ぷらに全力を注ぐだけだ。まずは火の通りにくいカボチャを衣に通して油の中へ投入した。
 大きな泡を作りながらカボチャが揚がる音に混じって、カラカラカラと店の引き戸が開く音が聞こえくる。
(…やっと帰ってきやがったか)
 案の定「ただいまー!」という元気の良い声が聞こえ、それを迎える剛の声が聞こえた。なんだかんだいって息子の不在を寂しがっていた父親だからしばらく話してくるだろうと思いきや、山本はものの30秒もしないうちに厨房へ飛び込んできた。
「ただいま獄寺!」
(早ッ!…っつーか)
 親父さんはいいのかよと剛を案じつつ、獄寺は怪訝な顔で振り返った。
「…なんでてめぇにただいまなんて言われなきゃ」
 振り返る獄寺を見た山本の目が大きく開かれる。ゴソゴソとポケットを探り始めた山本に獄寺は嫌な予感がした。取り出された携帯電話に眉を寄せて、獄寺は菜箸を持つ手を上げて顔を背けた。
「なっ、またかよ!?待て山本、撮りやがったら果たすぞてめぇ!」
「だって前髪留めてんのなんて初めてじゃね!?獄寺、ちょっとだけ手ぇどけて」
「アホか、オレの話を聞け!おまえのその行動はもう意味がねぇんだよ!!」
 山本はきょとんとして構えていた携帯を少し下ろした。
「意味がない?」
 それを見てホっと息を吐いた獄寺が菜箸を持った手を下ろす。
「そうだ、おまえが合宿に行ってる間に10代目がここへいらっしゃっ」

 ウィーン、カシャ。

「よし」
 にへっと山本が満足気に笑う。手を下ろしたのを見計らっての堂々の激写に獄寺はわなわなと怒りに震えた。
「…てめぇ、その携帯あとで逆に折りたたんでやるからな」
「で、ツナが来たって?」
(もう嫌だコイツ)
 話を聞く気があるのかないのか。獄寺は深い溜息を吐いて山本に背を向けると、揚げているカボチャをひっくり返した。
「だから撮って見せる必要なんかねぇんだよ」
「そんな」
 名目が潰れたことに表情を暗くした山本が調理台に両手をつく。
「…俺の楽しみが」
 ボソッと零れた山本の本音に獄寺の柳眉が上がった。
「てめぇ、やっぱりただの嫌がらせだったのか!」
「え、いや、俺はそんなつもりじゃ!…なかった、と思う」
 何か思い出したように口元を押さえて途中からモゴモゴと口籠もっていく。全く自信のない語尾は言われたことを半分認めたようなものだ。ブチっとキレた獄寺は、油きり網を敷いたバットにカボチャを上げると油滴る菜箸を山本に向かって振った。
「死ね!!」
 ビッ!ビッ!と菜箸についた天ぷら油を山本へ飛ばす。
「熱ッ!!ちょ、獄寺、熱いって!それはマジで熱い!」
 油舞う攻防が繰り広げられる中、厨房の入り口にスッと人影が現れた。スタイル抜群の美女は、黒髪の少年に攻撃を仕掛けているエプロン姿の弟を見つけると、大きな瞳を驚きに見開いた。
「まあ…隼人が料理修行を始めたって噂は本当だったのね」
 凛とした女の声に獄寺がビクリと動きを止める。振り向いた山本が美女の名を呼んだ。
「ビアンキ姉さん」
「!!」
(姉貴…!?嘘だろ、何で)
 菜箸が落ちて床に跳ねた。カラカラと転がった菜箸を見つめながら、獄寺は条件反射で荒れてくる胃を押さえた。声を聞いただけで酷く気分が悪い。もちろん、姉の方を向くことなど絶対に出来なかった。
「驚いたわ、あなたも料理に目覚めるなんて…やはり姉弟、血は争えないわね。それにしてもこんな所で教わってるなんて」
 コツ、コツ、とヒールの音がゆっくりと近づいてくる。菜箸をおさめた視野に10cmヒールのミュールが映って、獄寺の視界がグラリと揺れた。
「どうして教えてくれなかったの隼人。ひとこと言ってくれれば私が教えてあげるのに…料理のことなら任せて、これからは私が―――」
 止めの一撃。弟の顎を捕らえた細く白い手が、クイっと俯く顔を上げさせた。
「はがぁぁ…ッ!」
「ご、獄寺!?おい、大丈夫か!?」
 最後に姉弟まともに話をしたのはいつだっただろうか。いつもの如く、派手にぶっ倒れてしまった弟を見てビアンキは大きな溜息を吐いた。
「またなの隼人、困った子ね…」


*****


 懐かしい夢を見た。椅子に座る幼い自分と、傍にしゃがみ込む銀髪の女性。小さな指を撫でる温かい感触。
 人の記憶とは凄いと思う。古すぎて思い出すことも叶わない遠い昔の事も、記憶から消えてしまったようでしっかりと片隅に残っている。
 その優しい笑顔も声も音色も、もう二度と出会うことはないと思っていたのに。
 夢の中でこんなにも鮮明に甦る。指を撫でるその温かい感触までも。
(?……違う)
 獄寺は夢現に眉を顰めた。夢ではないリアルな感覚。指先を持って、誰かが本当に指の背を撫でている。
「細長ぇ指だな…」
 呟くような低い声がしてフッと意識が浮上した。薄く目を開けて映ったのは居間の天井。触れられている指先の方へ顔を向けると山本がいた。濡れたタオルが額からゆっくりとずり落ちていく。
 当人が目を覚ましたのにも気付かずに、視線を落として指を撫で続けている山本は観察するようにジッと獄寺の手を眺めている。
「何してやがる」
「!」
 驚いて顔を上げた山本が慌てて指を放した。
「わ、悪りぃ……大丈夫か獄寺?」
 あんな夢を見たのはこいつのせいかと、解放された手で額を押さえて緩く頭を振る。姉を見て倒れたことを思い出して獄寺は深い溜息を吐いた。
「オレ、どのくらい気失ってた」
「んー、2時間くらいかな」
「…姉貴は」
「おまえの作った天ぷらと味噌汁食って帰ったぜ、そのうちまた様子見に来るってさ。弟思いのいい姉ちゃんだよな」
「どこがだ」
 また来られて堪るかと思うが昔から神出鬼没な姉だ。遭遇を避けるのも難しいだけに考えるだけで先が思いやられる。
 気だるい身体を起こしてみると、テーブルに宿題の問題集が広げられていた。どうやら宿題をしながら看ていてくれたらしい。
「…おまえ、メシは?」
「ああ、獄寺起きたら一緒に食おうと思ってまだ…味噌汁1杯だけ食ったけど。すげぇうまかったぜ!」
 屈託なく笑う山本に「そりゃどうも」と、獄寺は襟足を掻いた。照れ臭いのを紛らわしたくて、どれだけ出来たのかとテーブルの問題集を手にとってパラパラと捲ってみるが、案の定あまり進んでいなくて思わず溜息が出る。
 問題集を捲る細い指を見て山本が笑んだ。
「獄寺って指長ぇよな、ピアノ向きっつーの?」
 言われてドキリとする。ピアノという秘めた趣味を山本に話した事は一切ない。指を使う代表的な楽器といえば大方ピアノを連想するから偶然の発言に違いなかったが。
「…ピアノ向きとかわかんのかよ」
 んー、と少し唸って山本は両手を開いた。
「あんま知らねーけど…長くて、指がよく開くとそうなんだろ?俺も昔さぁ、親戚のおばちゃんに『武君は指が長くてピアノ向きねー』って言われたことが」
「寝言は寝て言えよ」
 ひどく冷めた目を向けられて山本が反論する。
「ほ、ほんとだって!」
「ちょっと手がデカイだけだろ!見せてみろ、おまえがそんな手ェしてるわけ―――」
 手首を引っ掴んで山本の手を見た獄寺は思わず声を呑んだ。
「……」
 手の大きさだけではない。今まで全く気付かなかったが、思いのほか長い指に目を疑う。引き寄せて、両手で手を開けさせて指を伸ばしてみる。野球をしているから皮の厚い頑丈な手をしているが、もし何もしていなかったなら山本は形良いきれいな手をしていただろう。
「こう、指を思い切り広げてみろ」
 無言で、命令どおりに山本が手を大きく開いた。
 関節も柔軟でよく開く。きっと1オクターブも軽く届いてしまうだろう。ピアノだけじゃない、弦楽器などの指を使う演奏者にしたら山本は本当に羨ましい手をしている。
 大きく開かれた山本の手に、これまた大きく開いた自分の手を合わせてみた獄寺は、余裕で山本に負けているというムゴイ現実を目の当たりにして言葉を失った。
(マジかよ…ムカつくぜこのヤロウ、野球バカのくせに…!!)
 勿体無ぇ手しやがって!と睨みつけた獄寺は、山本の様子が少しおかしいことに気付いて眉間の皺を緩めた。獄寺に手を掴まれたまま、身体を固くした山本は伏し目がちに何も喋らない。
 またか、と獄寺は眉を曇らせる。本当に短い合間のことなのにいつも目敏く気付いてしまう。何か無理をしているような、気遣わしいその表情に。
 獄寺は掴んでいた山本の手をぺいっと放り返した。
「全然違うな。気品がねぇ」
「気品!?」
 山本が自分の両手を見ながら、気品…?と首を傾げる。呆れたように「しょうがねぇな」と溜息を吐いた獄寺は、自分の手を山本の前に掲げてみせた。今は外しているが、リングのよく映える細く整った手が、手タレさながらに気取ったようなポーズをとる。
「見ろ、これが気品のある手だ」
 さらりと真顔で言ってのけた少年に山本が思わず噴出した。
「ぶ…っはははははははは!!」
「テメっ、笑うとこじゃねえッ!!」
「だ、だって…あはははははっ」
 楽し気に笑う山本にどこかホッとしつつ獄寺は立ち上がった。腹を抱える山本の背に軽く蹴りを入れる。
「メシの用意すっから、笑ってねぇでおまえも手伝え!」
「……獄寺」
 居間の襖を開けたところで獄寺は呼び止める声に振り返った。見ると、足を投げ出して座ったまま、笑い止んだ山本が手を伸ばしている。
「引っ張ってくんね?」
「…」

 日々の積み重ねによって着実に培われていくもの。
 それが料理のことだけに限らないのは言うまでもなく―――

「自分で立てよ…めんどくせぇ奴だな、オラ」
 伸ばされた手を掴んで強く引っ張ってやる。ぎゅっと握り返される手から伝わってくる、ほの温かい熱。 
 不思議なものだと、獄寺は思う。
 かつては確かに忌み嫌っていた存在。それが今は、こんな些細なやりとりをも心地よいとさえ…
 負荷と引き換えに立ち上がった山本が嬉しそうに笑った。
「サンキュ」

 心の隙間を埋めるように、じわじわと温かいものが浸透していく。
 それを不快に思わなければ、さして気に留める事もない。それが目に見えぬものなら尚更のこと。
 自分の中で徐々に順化して育っていくものが、日に日に深く根を張って広がっていくのに獄寺は気付けないでいた。



(2007/11/13 up)


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