居間で山本と二人、TVを見ながら雨が止むのを待っていた獄寺が痺れを切らしたのは、夜も10時を回った頃だった。どうやら驟雨ではないらしい雨は弱まることはあったが、止むまで待っていると程なくしてまた激しく振ったりを繰り返して一向に止む気配がなかった。
 剛へ挨拶をしに店のほうへ出ると、この時間はまだ呑み客がチラホラいるはずなのに大雨のせいですっかり客がいない。剛はといえばちょうど最後の客を見送っているところで、迎えに来たタクシーに乗りこむ客が濡れぬように店頭で傘を差していた。タクシーが走り出して尚、見えなくなるまで見送ろうとしている剛に二人は歩み寄った。
「親父さん、お邪魔しました」
「おぉ、今から帰んのかい?」
 二人の待つ入り口まで戻ってきた剛が、獄寺が手にしている傘を見て苦笑いをした。
「この雨じゃあ傘差してもあんまり意味ねぇんじゃねえか」
 パチンと差していた傘を閉じた父親のその口ぶりに、山本は(もしかして)と予感する。剛は傘を傘立てに仕舞いながら和やかに笑った。
「今日はうちに泊まってったらどうだ?なにもこんな大雨のなか無理して帰るこたぁねえよ」
 やっぱり…、と山本が天を仰ぐ。剛の性格を知っていればこそ、この場面でそう言わない方がおかしいのだと息子にはよく解る。
「何か帰らねぇといけねえ用事でもあんなら仕方ねぇけど」
「いや、別に何も…」
「じゃあ泊まっていきな。着替えも武ので十分いけるだろ、武、風呂に湯張ってあと色々用意してやんな。父ちゃんは布団出しとくからよ」
「あ…ああ、わかった」
 獄寺が今夜泊まる。これもまた僥倖と言っていいものか、山本は動揺を隠すのに必死だった。


(すごい事になってしまった)


 心臓が騒いで止まらない。シャワーを使う音が微かに聞こえてくる脱衣所の前で悶々と立ち尽くすこと5分。獄寺がまだ湯船に入っているうちに持ってきたならこんなことにはならなかったのに、着替え一つ選ぶのにどうしてこんなに時間が掛かってしまったのか。
 山本を逡巡させているのは他でもない、不透明独特の曖昧さで身体のラインと色を中途半端に映し出しているだろう浴室のすりガラスだった。ただでさえ手強い煩悩と戦う今、それはどんなに刺激的な無修正エロ本よりも見てはいけないものに違いなかった。けれど着替えを持っている以上は行かねばならない。躊躇いは時間の無駄でしかなく、早くしなければ獄寺が風呂から出てきてしまう。
 深呼吸をした後、意を決して山本はドアノブを回した。ボリュームを増したシャワーの音を耳に、浴室のドアを見ないようにしながら空っぽの籠に着替えとタオルを入れる。山本は大きく息を吸い込んだ。視線だけは有らぬ方を向けて、浴室へと声を張り上げる。
「獄寺!着替えとタオル置いとくからな!タオルは使ったら」
 そのまま洗濯機に、と続ける途中で浴室のドアが開く音がした。ぎょっとして思わず浴室に目を向けてしまった山本は、少し開いたドアから覗いた緑の双眸と目が合って息を詰めた。立ち込める湯気の中、少し背を逸らせて顔だけを覗かせながら、獄寺は片手で顔の水滴を拭った。
「聞こえねぇ、なんだ?」
 銀髪が後ろへと流されていて湯の熱で上気した顔が良く見える。濡れた白い肩の、あまりの艶かしさに目を奪われた。
「き…着替えとタオル、ここに置いとくから」
「ああ」
「それと…えっと、何言おうとしたんだっけ…あ、た、タオル!使ったらそのまま洗濯機に放り込んどいてくれればいいからさ」
「…ああ、わかった」

 ばたん、と浴室のドアが閉まった後、急いで脱衣所を出た山本は一目散に自分の部屋へと駆け込んだ。
 呼吸を整えてから、部屋の壁に両手をついてガッ!ガッ!と強く頭を打ち付ける。
(忘れろ…!忘れて見なかったことにしろッ!!)
 しかし厄介なことに人は忘れたいことほど記憶に残るもので、まして衝撃が伴っている上にしっかりと目に焼き付けてしまっていては最早忘れようがない。頭を打ち付けても違うことを忘れてしまいそうだ。
 湯気で微かに蔽われた白い肌の色香は凄まじいものがあった。新たな煩悩の種となったそれをうっかり思い出しながら(…マジですげぇきれいだった)などと考えてドキドキしていると、鼻の中をツゥっと何かが流れる感覚がして、山本は咄嗟に指の背でそれを押さえた。
 上を向いてそっと指を離して見ると、そこには久しく見なかった鮮血が付着していた。


(たぶん今日は寝れねぇな)
 明日も練習あんのにな…と小さな溜息を吐いて、風呂を出た山本は居間へと向かった。風呂の間も悶々とあれこれ考えてしまい、止まった鼻血が何度ぶり返したかわからない。浴槽の湯を見て(…獄寺が入ったんだよな)などと考えた時は己の変態思考にさすがに嫌気が差した。
 慣れって怖いな、と山本は思う。まだ手に触りたいなどの可愛い欲求でずっと治まっていられたなら良かった。しかしそれが何度も繰り返されて慣れてくると、或いは実際に叶ったりすると、さらに刺激的なことを考えるようになってくるのだ。邪まな思いを抱えて傍には居辛い。前はもっと、清い目で彼のことを見ていられたのに。
 居間の電気はついているのでまだ寝てはいないだろう。寝てたら寝てたで寝顔が見れるので構わないが、ともかく寝る前にもう一度顔が見れたらと思っていた。獄寺の寝顔が可愛いのは先日に倒れた時に見てよく知っている。明日も朝早くに居間を覗けば見れるんじゃね?とまだ比較的ゆるい想像をしながら山本は居間を覗き込んだ。
(あれ?)
 TVでも見ているだろうと思いきや獄寺の姿はなく、まだ布団も敷かれていない。居間の奥には剛の部屋がある。少し開いている襖を覗くと、剛が押入れから布団やらを引っ張り出しているところだった。布団はこれから敷かれるのだろう。
「オヤジ、獄寺は?」
「獄寺君か?上にいんだろ?」
「上って…俺の部屋?」
「ああ。獄寺君にもうちょっと待ってなって言っといてくれるか」
「…うん」
 部屋にいる、と言われて山本は戸惑いを隠せなかった。これといった暇潰しもなければ特別使う必要もなかったため、獄寺は今まで一度も山本の部屋に入った事がない。見られて困るようなものはないはずだが、ゲーム機もなければ雑誌や漫画も野球ものばかりで自室に彼の興味を引くものは何もないはずだ。獄寺が自室で何をして時間を潰しているかなど想像もつかない。
(つーか、あれを見た後で部屋に二人っきりって…)
 結構キツイな、と山本は鼻の根元を押さえて階段をあがっていく。獄寺の前で鼻血を出すような失態はしたくないが、その覚悟はしなくてはならないだろう。階段を上がると自室のドアの隙間から光が漏れていた。ふうっと息を吐いて取っ手に手をかける。
(さぁ、何をしてっかな)

 自室の引き戸を滑らせた山本は、目前に広がった怖ろしい光景に息を呑んで思わずゆっくりと引き戸を閉めた。

 獄寺はベッドの上に座って何か本らしきものを見ていた。それはいい。問題はそこではなかった。
(まさか…俺の部屋で寝んの!?)
 ベッドの横に敷かれていた布団は紛れもなくそういう意味だろう。自室は広くないし獄寺も全く居慣れてないことを考えれば、布団は当然の如く居間に敷かれるとばかり思っていた。
 トントン、と階段を上がってくる音に気付いて山本は振り返った。
「おぉ武、これ獄寺君に」
「…オヤジ」 
「オイ、何いきなり閉めてんだ」
 ガラッと引き戸が開いて顔を出した獄寺に、剛が「あぁ、ちょうど良かった」と薄手のブランケットを差し出した。
「遅くなってすまねえな、上掛けはこれ使ってもらえるかい」
「あ…すいません」
「おう、じゃあオヤスミな」
「おやすみ、なさい」
 ブランケットを手に、獄寺がぎこちなく慣れぬ挨拶をする。
 階段を下りていく父親に、山本も遅れておやすみを言った。

 部屋へ戻っていく獄寺の背中越しに、きれいに敷かれた布団がみえる。
(俺…そのうちキレちゃうんじゃねえの)

 この状況を望んだわけでもなければ、寧ろ厄介な邪念を懸命に振り払おうと努めているのに一体これは何の試練なのか。
 己の理性がどれほどのものかなんてわからない。自分の意思次第といえどこんなもの、間違いが起こらないよう祈るほかない。

 数多の神社でよく言われる恋の神様とやらが本当にいるのなら、そいつは酷く意地悪な奴に違いないと山本は心の底から思った。



(2007/11/25 up)


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