…眠れない。
黙って目を閉じていても浅い眠りにも入れない。ただでさえ寝つきも良くない上に、人の家ともなれば尚更か。獄寺は小さく息を吐いて閉じていた目を開いた。闇に慣れた目に、部屋の景色が薄っすらと映る。
電気を消してから何時間が経ったのか。雨もいつの間にか止んだようで、静かな部屋に時計の秒針や寝返りの音が際立つようになった。何とか眠ろうと目を閉じているのも限界で、雨も止んだ今ならベランダに出れるんじゃないかと考えると途端に煙草が恋しくなる。
身体を起こしてベッドから足を下ろした。下で眠っている少年は就寝時からベッドに背を向けたまま、獄寺が確認する限りでは殆ど身じろぎもない。眠っているようには何となく思えなかったが、定かではないので起こさないようにと一応の注意を払う。傍に置いた衣服から煙草とライターと吸殻ケースを取り出して、ついでに携帯の画面で時刻を確認した。
(まだ4時過ぎかよ…)
身動きのない山本を横目に窓へと向かい、なるべく静かにそっと鍵を開けて外へ出た。サンダルを履いてベランダの奥へと進む。
雨が降ったせいで蒸し暑い。ベランダの隅などに雨の名残が残っているものの、気温の高さで水気は殆ど無くなっている。乾いた手すりに安心して凭れ、煙草に火を点けた。夜の闇も和らいで、仄明るくなってきている空に一口めの紫煙を長く吐き出す。
(あー…うまい)
煙に味などないのにそう感じるから不思議だ。吸わない時間が長かったせいもあるだろう。ここにいる間は煙草は控えるようにしていた。最初は剛の手前だったが、控えているうちにその理由も自然と形が変わった。山本と二人の時でも控えはじめ、一服したい時も自主的に外へ出るか窓の外へ顔を出すようにするなど、以前の自分からは考えられないような配慮までしているくらいなのだから余程だろう。
―――紫煙で汚したくないと思うほど、この家の温かみのある匂いが好きなことに気付いたのだ。
香水などの作られた匂いや、こびり付く紫煙の匂いとはまるで違う。日々の生活に伴って生まれる自然な家の匂いは、包み込むような安心感があって優しい。だから汚したくなかった。それは紫煙で簡単に壊れてしまうものだと知っているから。
ぬるい風を受けてしばらく吸っていると、カラカラと窓の開く音がした。現れた少年は寝起きの顔には見えないから、起こしたわけではないだろう。やっぱり起きてたのかと、溜息交じりの紫煙を吐いて長くなった灰をケースの中へ切った。
「寝れないのか?」
そう言って近づいてくる少年に、こっちのセリフだと突っ込みたくなる。
「…いつものことだから気にしねぇで寝てろよ」
「いつものことって」
「癖みたいなもんだな…普段から夜はあんま寝れねえんだよ」
城を飛び出した日からずっと。
自分の身は自分で守らなければならなくなった日から、寝る時も神経を尖らせてきた。イタリアで彷徨っていた頃は特に衝突も多く恨みも買うことも度々あったため、いつ寝首を掻かれるかわからないとなれば、自ずと深く眠ることが出来なくなってしまったのは必然の結果だった。それはイタリアを離れた今でも変わらない。もう、身体がそれに慣れてしまったのだ。
寝ても眠りは浅く、夢ばかりみる。
「ニコチンが切れるせいもあんのかもな」
寝ててもニコチンが切れると神経が高ぶるらしいから。付け加えた説明を物珍しそうな顔で聞いて、山本は心配そうに眉を下げた。
「…不眠症ってやつ?」
「どうだろうな、昼に眠いとか調子悪いとかも別にねぇし」
「けど、寝れないんだろ?」
「支障がない程度には寝れてるからいいんじゃねえの」
必要な睡眠時間なんて人それぞれだ。浅い眠りでも事足りているならそれに越したことはない。
「おまえは?」
「え?」
「寝てないんだろ?」
問うと、わかりやすく困った顔をする。返答するまでに開いてしまった僅かな間を誤魔化すように、山本は苦笑いをした。
「…なんか、目が冴えてさ」
その原因に何か具合の悪いことでもあるのか、ヘタな答えに眉を寄せた。自分でも原因を解っているのに言わなかったのが丸バレの顔をしている。山本は嘘が付けないタイプの人間だ。言葉では嘘を吐けたとしても、本音が顔に出るといったような。
いつからだろう、山本がただの遠慮とは言い難い、奇妙な隔たりを感じさせ始めたのは。
「寝る場所が変わったせいか?今からでもベッドで寝とけよ、朝から練習あるんだろ」
「ああ…でも眠くねえし」
しかし、かといって避けるわけでもない。寧ろそれでも付き合って傍にいようとする。だから余計にわからなくなるのだ。
まどろこしいのは性に合わない。何を考えているのかわからないなら、直接本人に聞けば良い。
獄寺は、短くなった煙草をケース内で揉み消して収めた。
「なぁ、聞きてぇことがあんだけど」
「ん?」
「おまえさ、オレと仲良くなりたいっつってたよな」
そう言って、近づいてきたのは確かに山本の方だった。邪険にしても懲りずに向かってこられて心底胸が悪くなった程、以前は本当に山本のことが嫌いだった。でも。
紆余曲折を経て、自分にはないものを学ぶために、いざ我慢して山本の領域に足を踏み入れてみて拍子抜けしたのだ。
「…おまえといるの、悪くねぇよ」
山本の傍は、思っていたよりもずっと居心地が良かった。
「最近、そう思うようになってきた」
目を見開いてひどく驚いた顔をする山本を見つめ返して、獄寺は訊ねた。
「おまえの、望んだ形になったんだよな?」
「…ああ」
そこで、山本がふっと視線を落としたのに眉を顰めた。頼りない笑顔では、肯定されても疑心は膨らんでいく。
「けどおまえ、一緒にいてもあんまり楽しくなさそうだよな……何でかな、おまえのこと嫌ってた時の方がずっと楽しそうな顔してた気がする」
前はもっと自分から絡んで楽しんでいる感じがあったのだ。それが、こっちから歩み寄り始めた途端少しずつどこかへと消えてしまった。
「オレに、何か言いたいこととかあるんじゃねえの」
そうでなければ、他に何か納得のいく原因があるのならそれを聞きたかった。
「……気のせいじゃね?」
笑って言われても、目は嘘を付けない。目敏い自分が悪いのか、しかしそうしてはぐらかされる程に、事の原因は自分なんだという思いが強くなっていく。
テリトリーに入りすぎたのがいけなかったのか?
それとも父親との勝手な取り決めに巻き込んだから?
夕食のことも個人授業のことにしても、剛との間で勝手に決めて始めたことだった。それに対して文句を言わなかったとはいえ、山本の意見など一切聞かなかったことに違いはない。
言ってみれば夕食から数時間、自分がいるせいで山本は自由な時間を奪われているに等しいのだ。山本からすれば、好きな野球中継を消されて半ば強制的にその時間に宿題をやらされているも同じといえる。
考えれば、不満がないはずがなくて。
お人好しだから言えないだけなのか。だがそれは互いのためにならない。何か不満があるなら、はっきり言えばいいのだ。無理に付き合う必要はないのだから。
奥床しい日本人の性質なのか知らないが、不満一つ言えないなんて冗談じゃない。言えよ、と獄寺は目を据えた。
「思ってたの違って、オレは面白くなかったか?」
こちらが自虐的になれば本音を引き出しやすいかと期待したが、山本の態度は変わらなかった。
「変なこと言うのな…気のせいだって、俺すげぇ楽しいし」
思わず溜息が出る。3度目の作り笑いに、さすがに嫌気が差した。
「どっかで見たことのあるツラしてるぜ」
「獄寺…」
不穏な空気に山本の顔色が変わる。何かあると解っているのに、頑なに言わない。それに心底苛立つ。
「…もういい、わかった」
「獄寺」
「退けよ、もう寝る」
怒りを示しておくのも本音を引き出す手段の一つだろう。けれど今はもう、話を聞く気になれなかった。戻ろうとすると、山本が不安げな表情で立ち塞がる。
「獄寺違うんだ、俺」
「退けって」
取り抜けようとする獄寺の両肩を掴んで、山本は緑の双眸を見つめた。
「好きだ」
「…」
獄寺は目を丸くした。狐につままれる、とはこういうことを言うのだろうか。頭が真っ白になって思考が停止してしまう。
肩を掴む手が緩み、今度はぎゅっと強く抱きしめられる。突然のことに身体が固まって動かない。どちらのものかわからないくらいに、早鐘のような鼓動が身体に響いた。
「マジで、シャレになんねぇくらい、好きで…自分でも、どうしていいかわかんなくて」
(ちょっと待て)
「だから、思ってたのと違うとか、そういうんじゃなくて」
(なんだこれ)
「……ごめん」
なんだそれ、と半分呆れる。どうすればいいかわからない上、謝罪で終わる告白なんて聞いたことがない。
「な、に謝ってんだよ…放せよ、それでオレにどうしろってんだ」
「…」
自分でもどうすべきかわからないと言っているのに、言われた方はもっとわかるはずがない。そもそも告白とは何のためにされるものかを考えて、獄寺はまさかと笑ってしまう。
「付き合えとか、言うんじゃねえだろうな?」
「…言ったら、付き合ってくれんの」
強く抱きすくめる腕と、返ってきた切ない声に酷く戸惑う。かぁっと顔が熱くなった。
「あ、アホか、男同士で何言ってやがんだ。放せって、また殴られてえのかよ」
「……」
出来るだけ重くならないように、軽く呆れたような口調で言ってみても、フッたことに変わりはない。
ゆっくりと身体を離した山本の表情はとても重く、ともすればこれから先、笑ってくれることもなくなるんじゃないかと思わせる表情で…獄寺は言いようの無い不安に襲われた。
離れていく身体を引き止めるように、山本の腕を強く掴んだ。
「山本」
(待てよ、どこからおかしくなった?一体どこから?)
どくんどくん、と警鐘のように胸が騒いでいる。…嫌だ。こんなはずじゃなかった。冷や汗で濡れた手の平にぐっと力を籠める。
(オレが、無理に聞き出そうとしたから?)
――― 失うのが、こんなに怖いなんて
「今のことは…全部忘れるから、おまえも忘れろ」
「…」
なんて自分勝手なエゴ。けれど、傷つけていると解っていても言うのを止められなかった。
「オレも、もうあんなバカなことは聞かねぇから」
いつの間にこんなにも…?
孤独を、心の隙間を埋めながら張り巡らされた根は想像以上に深く…失えば心に一体どれほどの穴が開くのか。その虚無感は想像するだけでも怖い。
「だから、今まで通りに」
山本は、自嘲気味に笑った。
「好きで、どうしようもねぇんだって」
溜息と共に、ゆっくりと、掴んでいた手を剥がされる。
「友達として見れるもんなら…俺も、獄寺のためにもそうしたほうがいいって考えたけど…結局、ダメだったみてえだし」
「……」
山本に感じていた異変の全てが、今になってようやく一本の線で繋がった。
「…一日ずっと、獄寺のことばっか考えて止まんねえの。ちょっと優しくされただけで、死ぬほど嬉しくてさ…笑ってくれたらもう、すげぇ、舞い上がって…手、触られた時なんか…胸がいっぱいになった」
想いを伝える黒茶色の目にもう嘘はなくて、疑心はきれいに消え去っていく。
けれど、真実と引き換えに友達を失うなんて、誰が想像できただろう。
「こんな、野球以上に夢中になれるものがあるんだって…俺、はじめて知ったんだ」
痛切なほど真摯な目をまっすぐに向けられて、獄寺はただ困惑して何も言うことが出来なかった。
「全部忘れて、今まで通りに…?」
山本は心痛を噛み締めて耐えるような表情で、緩く頭を振って静かに吐き出した。
「俺、出来ねえよ…」
(2007/12/09 up)
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