ベランダを去る後姿に伸ばした手は、触れもせず空しく宙を掴んだ。握った拳の行き場が無くて、手の平に爪がきつく食い込む。今は一人にした方がいいのか、否、一人になりたいのは自分かもしれなかった。そもそも引き止めたところで何も言えるはずがない。
 ――― 好きだ、なんて。
 寝耳に水の告白に動揺が治まらず、思い出すだけで勝手に顔が熱くなる。どうしたらいいのかわからない、まさに山本と同じ思いが頭の中を駆け巡っていた。
 足元のコンクリートを見つめ、呆然と立ち尽くす時が刻々と流れていく。脳裏に浮かぶのはこれまでのやり取りで、想いを打ち明けられた今だからこそ、山本の一つ一つの言動がそれらしく思えてきて遣り切れない気持ちになる。
 いつも見せていた嬉しそうな笑顔。(本当かよ)と、かえって疑いたくなるくらい大絶賛だった夕食の料理。帰り道も、「女じゃねえんだから」と家まで送ろうとするのを拒否すれば、「コンビニ行くついでだからさ」などと何かと用事をつけて強引に自転車を引っ張り出すことも度々あって。
 きっと、携帯の写メや合宿の電話も全部…そこには思いもしなかった想いがあってのことだった。
(…気付かねぇ方がおかしいのか?)
 いや、と獄寺は首を振る。それもわからぬほど、山本は友達の顔もしていた。思い返していくうちに胸がジリジリと焦げていく。
 目の端にチカ、と眩しさを感じて顔を上げた。遠く、山の稜線から芽ぐむ陽の光が、並盛の街を明るい色に染めはじめたのに目を細める。なんて夜明けだと思う。まるで悪い夢でも見ていたような。いっそ、夢なら良かった。
(どこ行ったんだあいつ…下にいんのか…?)
 足取りも重く、獄寺は主のいない閑散とした部屋に戻った。ベッドに腰を下ろして長い一息を吐く。温かな部屋の匂いも、今は少し息苦しく感じてならなかった。
 目に映るのは昨夜、彼が風呂から戻るまでにぐるりと見回した部屋。マフィアとは程遠い別世界、山本が作り出した6畳の空間を改めて眺めて、ふっと眩暈を覚える。山本の部屋は、彼のこれまでの人生を如実に語っていた。
 ラックに飾られたあどけない学童野球時の集合写真、獲得したトロフィやメダル。草臥れたグローブに挟まれたボールには、拙い字の寄せ書きが沢山されていて。一緒に置かれていた小さなアルバムはどこを捲ってもユニフォーム姿の少年しか写っていなかった。壁にはいくつのもサインが描かれている好きなプロ球団のユニフォーム。購読している雑誌や漫画も野球。カレンダーもポスターも野球関連のもの。山本の部屋はどこをみても野球で溢れている。唯一野球に関係なさそうなものといえば、ポータブルCDプレーヤーと何枚かあった邦楽のCDぐらいか。
 引いた足にコツンと固い感触が当たって足元を覗くと、そこに落ちていたのは昨夜見た野球雑誌だった。

『こんな、野球以上に夢中になれるものがあるんだって…俺、はじめて知ったんだ』

 恋情を表すのにまで野球と比較するなんて、と今思えば呆れそうなるが彼らしいとも思う。山本がどれほど野球に真剣で、心奪われているのかは部屋を見ても一目瞭然のことだ。対象が人ではないだけで、山本は野球に恋をしているも同然といえる。そこにあるのは、滾るほどの情熱と、ひたむきで迷いの無い真っ直ぐな心。人が抱く感情の中で最も純粋で繊細なものだ。
 そんな想いを向けるほど、山本が自分のどこを好いてくれたのかいくら考えてもわからなかった。幼い頃からずっと心酔してきたもの…それに勝るだけの魅力が自分にあるとはとても思えない。
(まして男で…なんで、オレなんか)
 そういった世界があることは知っているし、同性愛など今やそんなに珍しいことでもない。恋愛対象がどうであれ、人の好きずきをとやかく言う気はないけれど。
 たとえ男であることを無視したとしても腑に落ちない。人と合わせるのが苦手で譲歩することを知らず、さして優しくもなければ素直でもない。どう考えても恋愛するのに一番向いていない相手だ。
 よもや毛嫌いしていた頃から恋愛感情を持たれていたとは考え難い。だが、その要素は最初からあったように思えた。今でこそなくなったが、以前は好意を匂わせる冗談を言ってからかってくることがあったからだ。そして、おそらくそれが出来ていた間は山本も本気ではなかったはずなのだ。
 友達であった感情に、齟齬をきたした切っ掛けは何だったのだろう。
 ここでの数時間の交流の積み重ねか?それとも県大会の日、キスをしようとした時はすでに本気だったのか?
 自分はいつから、恋心を持った山本と一緒にいたのだろう。
 人一倍プライドが高くて負けず嫌いな性格は、友達としても付き合いづらいものに違いなかった。競争心に満ちた自分が山本の傍を居心地良く感じられたのは、偉ぶって優位に立とうとするこの厄介な気性を受け入れ、いまだ消えぬ拙い自尊心を、山本が笑顔で守ってくれた部分があったからだ。わざと横暴な態度を見せても、意を汲んで笑って受けてくれる。そんなお約束のようなやり取りが嬉しく、心地良いと思っていた。
 けれど、それは山本が心を砕いた上に成り立っていた。

『友達として見れるもんなら…俺も、獄寺のためにもそうしたほうがいいって考えたけど』

 友達と思えないのにずっと友達の顔をし続けるつもりだったのか。だとすれば、野球に対する姿勢から見てもそれはおよそ彼らしくない考えのように思えた。
 気持ちを告げればこうなる、友達さえも終わってしまう、そうなれば互いに嫌な思いをする…きっと、こうして自分が考えつくこと以上に、山本は様々な思いを巡らせて答えを出したのだろう。もしかしたら、何かあれば影響の及んでしまう綱吉のことも考えたかもしれない。
 何かの為、自分の気持ちを抑えることを臆病とするか美徳とするかは個々の受け取り方次第で。野球を引合いに出されれば、所詮は抑えられる程度の気持ちだったとは言えそうにない。
 好きだからと、山本が自分の思うまま気持ちをぶつけて突っ込んでくるようだったなら今の関係はなかった。目敏く気付いたのは自分だ。節々のほんの一瞬に思い病んだ表情を見つけて、疑心が頭を擡げた。それ以外ではちゃんと友達の顔をして見せた山本を、その一瞬が良しとさせなかった。
 けれど、こうして早くにわかって良かったのだろう。どちらにしろ、こんなことはきっと長くは続かなかった。
(全部忘れて今まで通りに、か…)
 言った直後の、眉を寄せた悲痛な表情が胸を過ぎる。好きだと、あれほど真剣に気持ちを伝えた相手に対して甚だ酷いことを言ってしまった。深く傷つけてしまったのは明らかで、この目下の問題を何とかしなければ先には進めそうにない。
 ともかく、山本に会ったらまずそれを詫びて、それから…
 すぐに考えに詰まって、獄寺は睫毛を伏せた。
(…それから、どうすりゃいいんだ)
 似た思いを抱いたことが以前にもあった。
 県大会の最終戦となった日、抱きしめられてキスをされそうになった時の事を思い出す。あの時も後々の対応に困り果てた。どうしてあんなことになったのか訳がわからず、気が滅入っていたせいだろうと勝手に折り合いをつけて努めて気にしないようにした。そしてその判断は正解だと思った。
 だが、今回も同じようにとはいかない。山本の出方次第か、嫌な状態のまま終わってしまうようなことは、どうしても避けたかった。

 一階から微かに物音が聞こえてきたのに耳を澄まして、獄寺は腰を上げた。引き戸を少し開けて耳を傾けると、何やら瓶のぶつかり合う音が遠くで聞こえる。厨房の方か?と推測してどうしようかと迷った。
(つっても、ここでジッとしててもしょうがねえしな)
 そろりと部屋を出て階段を下りていく。先に居間を覗いたが、奥の襖も全開になっていて誰もいない。厨房の暖簾を潜り、音に向かって奥の勝手口へと進むと、酒屋への仕度に空のビール瓶の入ったケースを積んでいる剛の姿があった。
「…おはようございます」
「おぉ獄寺君、おはようさん。なんだ、二人ともえれぇ早起きだな!まだ寝てていい時間なのによ」
 がちゃんとまた一つケースを積んで、獄寺を見た剛は少し眉を下げて笑った。
「どうした、すっきりしねえ顔して。枕が変わって寝れなかったかい?」
 何とも答えられず、「まぁ…」と獄寺は小さく笑って濁す。
「あの、山本は?」
「ああ、武ならちょっと外走ってくるって出て行っちまったけど」
「…」
 失恋して、奔走?
 不思議な行動だが、そういうものなんだろうかと真剣に考えてしまう。失恋した人間の考えることは想像も付かないが、理解できないようで、何となくわかるような気もする。
「…まーたケンカでもしちまったか?武も浮かねぇ顔しててなぁ」
 弱った顔で問われて冷やりとする。
「ケンカじゃ、ないんスけど色々あって…あの、大丈夫ですんで」
 本当の事を言えるはずもなく曖昧に逃げるしかなかった。大丈夫と言った獄寺の言葉に安心したのか、剛が柔らかに笑う。
「ケンカもいいけど仲良くしてやってくれな?武のやつ、獄寺君のことがほんとに好きみてぇでなぁ」
(!?)
 どっきぃ、と心臓が跳ねて獄寺は固まった。言った当人はさして気にした風もなく、ケースから放した手を軽く叩いて笑った。
「ちっと早いが、二人とも起きたんなら飯の用意しねぇとな。獄寺君も手伝ってくれるかい?」
「…あ、はい」
「そんじゃ先に顔洗って着替えてきな。タオルは洗面所の引き出しの一番上に入ってっからよ」


(ビビッたぜ全く…)
 洗面台横の引き出しからタオルを一枚取り出して、夏特有のぬるい水で口を漱いで顔を洗う。洗いたての香りのするタオルでごしごしと顔の水気を拭って、はぁ、と息を吐いた。剛の言った意味はもちろん違うだろうが、父親の目にも息子の態度はわかりやすいらしい。やはり気付かない自分が鈍かったのか?と思うと溜息が出る。
 このまま朝食の用意をして、3人で一緒に飯を食べるのだろうか。山本がすぐ帰ってくるかもわからないことを思えば、なるようにしかならない状況というのは先が見えなくて何とも心許ない。
 階段を上がり、部屋へと戻った獄寺は自分の服を拾ってベッドへと放り置いた。借りた服を脱いで自分の服に着替えていく。
 着替え終わった後、(…礼儀だよな)と脱いだ服を軽く畳んでベッドへと置き、ついでに敷いた布団も畳むことにした。入れ替えていた上掛けと枕を元に戻し、獄寺なりにきれいに畳んだ後、最後に枕を乗せて一先ず完了する。
 よし、と頷いて下へと降りようとした時、階段を上がってくる足音が聞こえて獄寺はそこから動けなくなった。足音は剛ではなく、山本のものだと不思議と判ったからだ。

 ガラッと開いた引き戸に緊張が走った。現れた少年をじっと見据える。
 山本は部屋の真ん中に突っ立った獄寺に「ただいま」と告げると、静かに引き戸を閉めた。
「どこ、行ってたんだ」
「河川敷まで…走りに行ってきた」
 その口調も表情も、ベランダにいた時のような暗さは感じられない。
「頭ん中、整理したくて」
 一人で納得のいく道を見つけ出せたのか。そう言って微かにでも笑みを作れるほどには回復したらしい山本に、獄寺は安堵の息を吐いた。状況は思っていたよりも悪くないのかもしれない。
「…整理できたのかよ」
「んー、まぁ」
 少し濁して、山本は苦笑いした。
「ちょっと死にたくなったけどさ」
 一発目の切り出しに獄寺は青ざめた。たかが失恋、されど失恋。解ってはいるがそれでも、失恋くらいで夢見悪くなるようなこと考えてんじゃねえ!と胸倉を掴んでやりたくなる。しかし(こいつはちゃんと話を聞いてやんなきゃマズいタイプだな…)と察した獄寺は口を噤んだ。
「死にたくなって、俺…ツナに教えてもらったことを、もっぺん考え直したんだ」
「…10代目に?」
 一年前にちょっとな、と一言付け足して山本は言葉を継いだ。
「なんでも死ぬ気でやってみなきゃわかんねぇって」
 獄寺は心中で感動する。
(さすがは10代目、素晴らしい格言…)
「だから俺、後悔しねえようにってずっと死ぬ気でやってた…でも、死ぬ気の向けどころを間違ってたんだよな」
 山本は真っ直ぐに獄寺を見つめた。
「こんな、手に入んなきゃ死にたくなるくらい欲しいもんがあるのに、色々考えて気持ち抑えて…ほんとに惚れてんなら嫌な思いはさせんなって、黙って見守ってくのが男ってモンだろって…死ぬ気で諦めようとしてて」
「…」
 真剣な顔で告げる山本から目を逸らせなくて、どくどくと鼓動が早くなっていく。本気の目を前に、言われている相手が誰なのかを忘れてしまいそうになる。
「変にもなるよな。もう限界きてんのに、大丈夫、耐えられるって自分騙し続けて…そんな大人になれるわけねえのに。そのせいで獄寺に嫌な思いさせて、結局、全然意味がなかった」
 低い声が紡いだ自分の名前。山本がこれほどに熱く想う相手が誰かを思い知って、獄寺は顔が熱くなった。堪らなくなって視線を伏せてしまう。
「獄寺が全部忘れろって、言ったやつな」
 その言葉にハッとした獄寺は、続きを遮るように手を上げると、小さく息を吸い込んだ。
「あの、悪かった……あれはオレも、酷いこと言った」
 ぎこちない謝罪に、山本は弱った笑みを浮かべた。
「忘れていいぜ、俺すげぇ格好悪かったし。俺も、フラれたとこだけ忘れることにした」
「…?」
 ものすごく都合の良い言葉が聞こえた気がして獄寺は眉を寄せた。腹を決めたかのような揺るぎない眼。少し歩み寄ってきた山本にギクリとして、半ば反射的にジリ、と後退りする。
「そんで、もっかい挑戦すっから」
「挑戦、って」
 山本の真摯な想いに、声に、眼差しに、完全に気圧されていた。山本が歩み寄ってきただけ、獄寺はジリジリと後ろへと下がっていく。
「俺、今度はちゃんと口説くから。それでフラれたら、ちゃんと納得できるから」
(口説く?)
 ドン、と背が壁にぶつかって逃げ道がなくなってしまう。逃げられないようにか、山本は獄寺の両手を捕らえた。ぎゅっと握って、少し赤い顔で切に訊ねる。
「獄寺が…俺を好きになる可能性は?」
「…は?何言って」
「1%でも、あるか?」
 もがいても解けない手に焦燥感が募る。
「だっ、だから1%もなにもオレ等は野郎同士だろうが!手ぇ放せよッ!」
「有るか、無いか、今の気持ちだけでも教えてくれねぇか!?頼む、獄寺…」
 山本を見つめる緑の瞳が、ゆらゆらと狼狽した。
「……、」
 顔が酷く熱い。真っ直ぐな双眸に捕らわれて、何かを言おうと唇は微かに動いても肝心の言葉が出なかった。

 その瞬間、これまで山本が想いを秘めて積み重ねてきた時間は決して無駄ではなかったのだと…そう確信したのは、山本自身だけではなかった。

(声が、出ねぇ)
 その可能性は1%も無いと、獄寺の心にはそうは言い切れない不可解な思いが根を張っていた。
 告白を聞いたとき、困ったのは確かでも、決して嫌な気持ちはしなかった。
 本気の想いを伝えられて戸惑っても、胸は勝手に高鳴っていた ――― 今まで人に、これほど切望されたことはなかったと。
(なんだオレ、なんで)
 沈黙が長くなればなるほど、それだけ可能性があることを示唆しているようで。
 山本もジッと獄寺を見つめたまま動かない。ただ、嬉しさを伝えるように手の握力が強くなって、獄寺は耐え切れずに顔を伏せて叫んだ。

「そんなもんわかんねぇよ…ッ!」

 かろうじて吐き出して、ギリ、と歯噛みした。
 嘘でも、どうして可能性を否定しなかったのか。わからない。胸の音が煩い。顔が熱い。きっと自分は今、知りたくもない顔色をしている。

「獄寺、俺、諦めねえから」
「…」

 真剣な声色とグッと強く握りこまれた手。
 ふいに落ちてきた影に思わず顔を上げてしまったのは…本当に迂闊だった。



 ダダダダダダダダダダッ!!と、階段を駆け下りるけたたましい音を聞いた剛は、足音の行方を追って厨房から店の方へと顔を出した。カウンター越しに、出口へと向かう獄寺を目にして首を傾げる。
「獄寺君」
 呼び止めた剛に「どうした?」と訊く間も与えず、獄寺は出口へと急ぎながら軽く頭を下げて店の引き戸を開けた。
「オレ急用思い出したんで帰ります、今日はもう来ないんですいませんッ!」
 ぴしゃっと、きつく戸を閉めて獄寺はさながら嵐のように店を去った。あまりの慌てように剛はきょとんとする。続いて現れたのは口元を押さえた息子の姿だ。
「おぉ武、獄寺君何かあったのか?えれぇ急いで…」
 ゆっくりと口元から指を放した息子を見て、剛は目を丸くした。
 また口角に血が滲んでいる。
「はは…、また殴られちまった」
 これも青春といっていいものか、苦笑いをする息子に剛は呆れた声で返すしかなかった。
「何やってんだおめーたち…」


*****


 手の甲で口元を押さえ、獄寺は真っ赤な顔で自宅までの道を疾走していた。
(信じらんねぇ…ッ!!あの野郎、マジで…―――!)
 唇を塞いだ柔らかい熱に目を見張って3秒後、握られていた手を振りほどいて力一杯に山本を殴った。

『次やったらぶっ殺してやる!!』

 直後に出てきたのがどうしてこの台詞なのか、獄寺は自分でも首を捻った。『次』なんて言葉を使えば、この一度は免ずると言っているようなものだ。
 山本に口説かれるなんて冗談じゃない。けれど、もう以前のように山本を突き放すことも出来ない。

―――厄介な奴に捕まってしまった。

 獄寺はいまだ残る感触を忘れようと、きつく下唇を噛んだ。



(2007/12/17 up)


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