家にいても考えは巡るだけで時間が無駄に流れていく。悩みに悩んだ挙句、翌日には竹寿司の前に立っていた。日が空けばそれだけ気まずくなる、行きづらくなる。初めて築き上げたものを、繋がりを、失くすことに耐えられないなら行くしかなかった。
口説くという、山本の言ったことがいまいち想像できなかったのもあるだろう。女を相手にするのとはワケが違う。男が男を口説くなんて普通に想像できるものじゃない。
危機感の鈍さが獄寺に甘い考えを呼んだ。とにかく何事もなかったかのような顔で接し、もし口説かれるような時がきても、冷静にいつもの態度で適当にかわしていけば何とかなるはずだと。
(好きだなんて…今だけだろ)
山本の告白と真剣な眼差しが脳裏に甦ったが、獄寺は固く目を瞑った。
恋は思い込みだという。自分はこの人が好きだ、という一種の自己催眠なのだと昔に本で読んだことがある。
山本はタチの悪い魔法に掛かっているのだ。男で、まして自分などを好きだというのだからそうとしか考えられない。
魔法はいつか解ける。だから―――
*****
夕食後恒例の個人授業。今日進めた宿題は国語のプリントで、そのあまりの出来の悪さに獄寺は辟易していた。プリントの前半から合っている箇所が殆どない。
(おかしいだろ、生粋の日本人のくせになんでオレより日本語が不自由なんだ)
普通逆じゃねえ?と思いつつ、獄寺はプリントのチェック部分をシャーペンの先で指した。次は簡単な三択問題だ。
「…あとここだ。『尻が割れる』と似た意味のことわざはAの『馬脚を現す』だ、『泣きっ面に蜂』じゃねえ」
「えー、俺これ自信あったのになぁ」
自信があったということは、違っていたとはいえ、このどちらの意味も頭にあったということだ。間違いは吐いて正した方が良い。残念そうな山本にその意味を訊いてみる。
「間違って頭に入ってんだろ、『泣きっ面に蜂』の意味は?」
「意味?泣いてるとこを、さらに蜂に刺されるんだろ…嫌なことが続くっていうの?」
合っている。ではもう一つを間違って覚えているのだ。獄寺は片眉を上げた。
「じゃあ『尻が割れる』は?」
「これ、切れ痔のことだと思うんだよな。切れて痛いとこがまた切れるんじゃね?」
至って真剣な顔で言った山本に獄寺が噴出した。
「あはははははッ!」
腹を抱えて畳に転がった獄寺を見て、山本が「おぉ」と目を開く。笑い転げる獄寺は珍しい。テーブルに手をつき、獄寺は笑けて震える身体を何とか起こした。おそらく本気で言っているから余計だ。ツボに入ったせいで笑いがなかなか止まらない。
「は、はは…っ、ち、違ぇよバカ…『尻が割れる』は、隠した事がバレんのを言うんだ…おまえ、マジで」
そこでようやく山本に見詰められているのに気づいて、獄寺の笑いが治まった。
少年の満面に浮かぶ喜色。至極幸せそうに山本が笑う。
「やっぱ笑うとすげぇイイよな」
どっくん、と強く叩かれたように獄寺の鼓動が跳ねる。身体は勝手にその動きを止め、頭の中も真っ白になって思考が停止した。瞬きも忘れて固まってしまう。
心なしか頬の赤い山本がシャーペンを持ち直した。
「問17はA、だな。よし、あともうちょっとだぜ獄寺!」
呼びかけにハッとして、身体がまともに動き出す。鳴り止まぬ動悸を気取られぬように、獄寺はひたすら冷静に努めた。
「あ、ああ、そうだな…次は―――」
一瞬、妙な空気に完全にのまれていた。もしかしなくとも今のはやっぱりそうなんだろうかと首を傾げる。
これまでとあまり変わらない態度の中で見え隠れするそれは、はっきりとしない微妙なものばかりでかわそうにもかわせない。
(…わかんねぇな、口説くって何だ)
山本が問題を解き直している間にこっそり国語辞典を引っ張ってみたけれど、結局よくわからなくて獄寺は口を引き垂れた。
夕方にはまだうるさかった蝉がすっかり鳴き止んでいる。竹寿司を出て静かになった暗い道を行こうとした時、後ろから自転車のスタンドが上がる音が聞こえた。フラットバーの自転車を跨いだ山本が、一漕ぎして獄寺の横に並ぶ。
「乗ってけよ、獄寺」
「…今日もかよ」
昨日も一昨日も送ると言って自転車を引っ張り出したのだ。心配という理由で送られるのを一度嫌がったからだろう、連日送られるようなことは今までなかった。以前のように、もう他の用事のついでとも言わなければそうする理由は一つしかない。
「今日もって、明日も明後日も送っけど?」
荷台のない自転車の後輪軸には、まだ真新しいステップが付けられている。荷台でも同じだが、人が乗るという時点で変速機保護のための道具は本来の使い方はされていなかった。そもそもステップに立とうが荷台に乗ろうが、自転車の二人乗り自体がすでに違反行為なのだが。
「いい、歩いて帰れる」
歩き出した獄寺を山本もゆっくりと追った。
「なぁ、乗らなくてもこのまま家の前まで見送んのに変わりねえんだし、乗った方が楽じゃね?」
尤もな意見に眉を寄せる。乗った方が早いし楽なのはわかっていることだ。…ただ、意識してしまっている。また、あの妙な空気にのまれる事をちょっと懼れている。
「…」
少し考えて溜息を吐いた獄寺は、ガリガリと襟足を掻いた。
山本に調子を崩されるなんてどうかしている。ここで引いたら負けたも同じじゃないのか。負けん気に背を押されて、獄寺はゆっくりと進む自転車の後ろに回った。山本の肩を掴み、ステップに足を掛けて一気に乗り上がる。
「おっ、と!」
一瞬、重心の傾いた自転車はグラついたが、すぐにバランスを取り戻した。運転手が重くなったペダルを嬉しそうに漕いでいく。大通りに出たところで、獄寺はふと思いついたように言った。
「わりぃけど今日は家じゃなくて駅前に行ってくれねえ?DVD借りに行く」
「ああ、いいぜ!」
快い返事をして、山本が駅前のレンタル店に向かって自転車を走らせる。頬を撫ぜる夏の夜風が心地よい。
「なに借りんの?」
「それを見に行くんだろ」
「何か目当てがあんのかと思った」
面白そうなものがあれば1、2本借りようと思っただけで、特に目当ての映画があるわけではなかった。この休み中、暇潰しに新作映画で気になるモノはいくつか見たが、まだまだ見ていない名作は沢山埋まっている。
「…何か面白いの知ってるか?」
「映画?んー…」
選ぶ指標が欲しくて訊いてみたものの、訊いた後で何となく予想がついてしまって急激に期待が下がった。
「メジャーリーグ!」
「な…やっぱそっち系だよな」
予想通りの野球映画でげんなりした獄寺の声に、「おもしれーのに」と山本が苦笑いをする。
「つーかさ、獄寺っていつもどんなの見てんの?」
「まぁ、面白けりゃ何でも…」
「今、ホラー特集やってんじゃね?」
夏だしちょうどいいじゃんと言う山本の勧めに、獄寺は渋い顔で「んー」と唸った。
「いや…そういう後引くのとか、後味悪いのは見たくねーかな」
そして、先日見たものを思い出してもう一つ付け加える。
「あと可哀想なやつもちょっとな」
「…」
急に黙り込む山本に、獄寺は首を傾げた。
「獄寺、俺…前にオヤジに聞いたの思い出したんだけどさ」
「あ?」
妙に真剣な声色に眉を寄せる。
「俺が合宿行ってた時、獄寺が居間で『火垂るの墓』見て泣いてたって」
「な…っ、バっ、泣いてねえよッアホか!!」
瞬時に顔が熱くなって、ゴン!と目下の頭を小突いた。「イテッ」と零して山本がゲラゲラと笑う。
最悪だ、と獄寺は唇を噛んだ。
忘れもしない、山本の夏期合宿一日目のことだ。後片付け時に洗い物で皿を割り、床を水浸しにし、その掃除と割った食器の片付けですっかり疲れ果て、居間で少し休んで帰ろうとテレビのスイッチを押したが最後、それが終わる11時頃まで居間から出られなくなってしまったのだ。
山本の話しぶりからして、見られたのは鑑賞中か。おそらくなかなか帰らないので居間に様子を見に来ていたのだろう。
ずっと店の方にいると思っていたのに。帰る時も顔を見られないようにそそくさと帰ったのに。
しかもそれを山本に話されたなんて恥ずかしくて死にそうだ。
「すげぇ可愛くね?俺も昔泣いたけど」
こんなことを言われてしまう失態を演じた自分が情けない。男が可愛いなんて言われても嬉しいわけがなくて、悔しさから自然と声に怒気が混じる。
「…可愛いとか言うな」
「けどカッコイイとは言えねぇし」
獄寺の心情を察したのか山本が苦笑する。話の軌道を戻そうとして、ふと思い出した山本は「あ!」っと叫んだ。
「オススメの映画あったぜ!『ダイハード』は?」
「いや…観てねぇけど」
しかし名前は聞いたことがあるから有名な作品だろう。山本が揚々と先を続ける。
「アクション映画でさ、3まで出てんだけど全部面白いぜ!主役のオッサンがすっげぇかっけーの、これはマジでオススメ!」
俺は2が好きなんだよなー、と話す山本に「ふーん」と軽い相槌を打って獄寺は訊ねた。
「主役のオッサンって誰だよ」
「ブルース・ウイルス!」
自信満々に言い放った少年の頭に、「病原体か」とやや重いチョップが落ちる。
「ウィリスだろバカ、年寄りみてぇな間違いしてんじゃねえよ」
痛い、と頭を押さえて、山本が素朴な疑問を返す。
「…それ、爺ちゃん婆ちゃんの間違いなのか?」
「なんとなくだ」
「俺…ブルース・ウイルスって、オヤジに聞いたんだよな」
単なる偏見だというのにショックを隠せない声色で山本が呟く。如何にも間違えそうなオヤジの笑顔を思い出して獄寺は失笑した。
話をしながら自転車を走らせること数分、ようやく駅近くのレンタル店が見えてくる。
店に到着してステップから降りた獄寺は、山本がそのまま自転車置き場に自転車を突っ込むのを見て、礼を言うのも忘れてしまった。
「…来る気かよ」
「だって家まで送ってねえじゃん」
最初からそのつもりだったのか、屈託なく笑って山本は自転車のスタンドを下ろした。ここまで来させて、さらに家にまで送らせようなんて考えてもなくて獄寺は弱った顔をする。自分に付き合って帰りが遅くなれば剛だって心配するだろう。一人で帰れぬほどやわではないのだ。獄寺は帰るように促した。
「帰んの遅くなんだろ、いいから帰れよ」
「嫌だ」
自転車の鍵を抜いた山本が、真っ直ぐに獄寺の目を見た。
「もっと獄寺といたい」
「!」
(だぁあああああッ!!)
これは完璧にアレだ!と、獄寺は慌てて顔を逸らした。動悸が酷い。少し熱くなった顔は赤く色が変わっていそうで見られたくない。さっきは出た「帰れ」の声が、喉で引っ掛かってしまった。
口説かれるのは不本意だ。けれど、こうなると帰れと突きかえすのも…不本意になってくる。
嬉しいと、僅かにも心のどこかでそう感じている。自分だって一緒にいて楽しいと思うのだから、そう言われて嬉しいと感じるのは当然のことで。
「…」
「獄寺?」
落ち着け、惑わされんな、と自分に言い聞かせ、獄寺は振り返らずに自動ドアへ向かった。
「…好きにしろよ」
「へへっ、やった!」
駆け寄って隣に並んだ山本と入り口を跨ぐ。嬉しそうに頬を緩ませる山本はかなり上機嫌だった。
「俺も一緒に何か観てぇなー、このあと獄寺ん家行ってもいい?」
「テメー調子にのんなよ…来たらぶん殴ってやる」
「はは、つれねぇのなー」
どんなに目を覆っても、告白されたこともキスをされた事実も消えない。
目前にある境界線は酷く曖昧で、これ以上近づいたならあっという間にあちら側に引きずり込まれてしまう。
相手のペースに巻き込まれるな。慣れに惑わされて今の距離を縮めるな。
そう頭に唱えて踏み止まっているつもりでも、獄寺はジリジリと近づいてしまっているような気がしてならなかった。
(2008/01/05 up)
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