「おまえ、今なんて…」
 山本のまさかの返答に、獄寺は絶句した。時間と場所を書いた二つ折りのメモとパスポートが、受け取られずに宙でぷるぷると震えている。

「ん?だから行きたくねぇって」

 枕元には読みかけの野球雑誌。突然の訪問者を前に、ベッドの上で胡座をかいた山本は話を一通り聞いてはっきりとそう言った。有り得ない、と獄寺は耳を疑う。自分は今、聞けば二つ返事でOKして当然のかなり良い話を持ってきたはずなのにと。
 ベッドの縁に腰を下ろして山本と視線の高さを同じにした後、獄寺は人差し指を立ててもう一度、念を押すように問いかけた。
「いいか山本、確かに部活はちょっと休まなきゃなんねーけどこんなチャンスは他にねぇ。親父さんも行っていいって許可してくれたんだ」
「うん」
「タダでイタリア旅行に行けるんだぞ?」
「うん」
「言えばどこでも連れてってくれるし、うまいモンだっていくらでも食える。ホテルのスイートよりイイとこに泊まれるぜ?」
 こうなったら嘘も方便だと好条件を並べ立てる。とはいえ、ディーノが相手ならこの程度は強ち嘘にはならないだろう。夏休み最後の思い出に打って付けの最高級の海外旅行だ。しかし山本の口からは「へえ〜」と興味もなさそうな声しか出てこない。
「へえ〜じゃねえよ、行くだろ?」
「だからさ、行きたいと思わねぇんだって」
「なんでだよ!!」
 焦れて声を荒げた獄寺に山本は眉を下げて笑った。

「だって獄寺はいかねぇんだろ?」
 そう、山本が断る理由はただそれだけ。よもや自分が原因になろうとは思いもしかなった獄寺はあんぐりと口をあけた。



 事の始まりは同盟ファミリー・キャバッローネのボス、ディーノが持ってきた昇進話だった。
 カジノ2つと80名の部下を備えたボンゴレ第6幹部への異例の大抜擢。聞いた直後は獄寺も素直に喜んだものの、それが10代目直属の元では叶わないことを知ると喜びも一気に冷めた。
『現在のボンゴレの繁栄がまわりまわって将来のツナの為になるんだ』
 そんな尤もな意見が獄寺の胸を刺した。ディーノに諭されて深く悩み、その後、昇進の話を聞いた綱吉が甚く喜んだこともあって一時はイタリア行きを決意したのだが。
『友達としてはすっげー…言ってほしくない…かも』
 例え部下として望まれたわけではなくとも。綱吉の口から零れたそんな温かな本音が獄寺を引き止めた。日本にいられる確かな理由が出来て安堵した瞬間、自分の本音をも思い知った。やはり此処にいたい。大切な者の傍にいて役に立ちたい。
 そうして胸を過ぎったのは綱吉のことだけではなく―――…
 有らぬ思いに戸惑いながら日本に残ることを決めた帰り道、『やはり行かねぇんだな』と物陰から姿を現したのはリボーンだった。

『リボーンさん』
『ちょうどいい、それなら山本に行かせろ』
『山本に…っスか?』
 最強と謳われる小さな殺し屋はニッと口の端を上げた。
『あいつはまだマフィアを「ごっこ遊び」だと思ってやがるからな…ディーノの元でマフィアについて学ばせるいい機会だ』
『な、なるほど』
 同盟ファミリーのボスの元でマフィアの実態を目の当たりにしてくれば、流石に山本も「ごっこ遊び」とは言わなくなるだろう。危険だと感じれば軽々しく首を突っ込むことも無くなるかもしれない。何にせよ山本の認識が改まれば綱吉の為にもなる。意図を解して頷いた獄寺へ、リボーンは扇動的に問いかけた。
『獄寺、山本を説得できるか?』
『もちろんっスよ!』

 料理修行を休み、その日は行く予定のなかった竹寿司へ直行した獄寺は、接客の合間を狙ってまず父親と直談した。
 山本は未成年ゆえ親の許しが第一となる。一番の問題は、山本のパスポートの有無によっては剛に巧く嘘を吐かなければならなかったことだ。パスが有ればまだ話は簡単だが、パスが無かった場合…イタリアへはディーノが裏ルートを通せばパスが無いこと自体はさして問題ではないのだが、さすがに剛には海外へ行くとは言えない。山本に口うらを合わせるよう頼むのも手だが、父親に土産話でもすれば簡単にボロが出そうで非常に心許ない。それなら国内でどこか、親子間の話に疑問が生じにくい場所を言うのが無難だと獄寺は思考を巡らせた。
(確かイタリア村ってあったよな…名古屋だっけ?)
 ここならちょっとくらいボロが出ても誤魔化しが効くか?などと不安いっぱいに考えたが、しかし、剛に海外旅行の経験を訊ねてみればそれらは全て杞憂に終わった。

『あ〜、むかし武が福引でハワイ旅行当てたことがあってなぁ!ありゃぁ…もう4年前か?思い切って店休んで二人で行ってきてなぁ〜』

 それから剛は、初めての機上にはしゃいでいた息子の様子を満面の笑みで語った。
 ハワイと聞いて(山本のくせに)と一瞬思ったが、しかしそれなら変な嘘も吐かずに済むと獄寺はホッと息を吐いた。未成年が取得出来るパスポートは5年用のみだが、剛の記憶が正しければ期限もまだ大丈夫だ。
 ようやく切り出された息子へのイタリア旅行話に、『はぁー…こりゃまたえらく突飛な話だな』と剛は目を丸くしたが、同行は綱吉の叔父(あくまで山本の認識でだが)で山本ももちろん既知の間柄だと、保護者の身の上をある程度話したことで安心を得られたようだった。
 話を持ってきたのが獄寺だという点でも信頼したのだろう、『武に行く気があんなら、おいちゃんは構やしねえよ』と剛の許可も下り、無事に紺色のパスポートも入手した。

 そして、最後の関門で思わぬ壁にぶつかり現在に至る。リボーンとの件を省き、これまでの流れを簡潔に話した後、断るだなんて思ってもなかったからメモも作ってディーノへの言伝をも口にした。簡単に籠絡できるだろうと踏んでいたのに、とんだ誤算に獄寺は頭が痛くなる。
 しかもその原因がよりによって自分だなんて。



「―――…ああ、オレは行かねぇ。オレの代わりに行ってもらいてぇんだからな」
「だからさ、行ったらその間、獄寺に会えないってことだろ?獄寺が作った飯も食えないし、勉強だって教えてもらえねーし…俺、全然いいことねえじゃん」
「…」
「合宿ん時でも限界だったのに、また何日も犠牲にしたくねえよ俺。ツナは無理だったのか?」
 作った夕食を一緒に食べて、宿題をやって。エスコート付きの豪華イタリア旅行よりも、この夏休み中に幾度も反復してきたそっちの方が良いという。
(そりゃ、嫌な気はしねぇけどよ…)
 だが今はそんなことに絆されている場合ではないのだ。
 こうなると夏休みがあと一週間程しかないのも大きな要因だろう。イタリアに行けばその一週間の殆どが潰れることになる。だから余計に山本は拒むのだ。
 山本が拘泥する理由は解っている。告白された事実を忘れたわけではない。山本と相対する時、常に頭の片隅にそれはある。
 …だが、それがなんだ。
 目的を思い出せと、獄寺はゆるく頭を振った。
「山本、おまえじゃねーと駄目なんだ」
 これは次期ボンゴレの、綱吉の為に繋がることなのだ。ましてこの指令を遂行出来なければ、山本一人説得出来なかったという無能の烙印を押されてしまう。ボスの右腕たる面目を保つためにもそれだけは何としても避けなければならない。借りは作りたくないから、この言葉は出来るだけ避けたかったのだがもはや致し方ないだろう。
 獄寺は山本と向き合って素直にお願いした。
「…頼む山本、行ってくれ」
 神妙な顔で言われてしまえば、今度は山本が困る番だ。獄寺といたいが為に断っているのに、その獄寺が行ってくれと言う。
 深く、長い溜息を吐いて視線を落とした山本は、しばらく考え込んだ後、窺うように獄寺を見た。

「ちょっとの間、ぎゅっとさせてくれたら行ってくる」

 ぴくりと眉を顰めた獄寺にも構わず、指を1本立てた山本は至って真面目な顔で言葉を継いだ。
「一時間」
「長ッ!!!」
 どこが『ちょっとの間』なのか、あまりの長さに思わずツッコんで獄寺は少し身を引いた。一時間なんて抱擁以外に何をされるかわかったものじゃない。
 言い過ぎたことを察したらしい山本が、今度は居住まいを正して指を3本立てた。
「え…、じゃあ30分」
「アホかてめぇ、冗談じゃねーよ!」
「じゅ、15分!」
「ブッ殺すぞ!」
「10分!」
「果てろ!」
「5分!!」
「死ね!!」

 撃沈。

 ガクリとベッドに両手をついて項垂れた山本は、しばらくして「…わかった」と力なく頷いた。
「いいぜ、行ってくるよ。俺が行かねーと何か困るみたいだし…獄寺の故郷が見れると思えばいいんだよな」
「…何もしねえぞ、オレは」
 半ば言い聞かせるように呟く山本に釘を刺して、ベッドから立ち上がった獄寺は再びメモとパスポートを山本へと差し出した。
「ああ、さっきのはちょっと本気の冗談だって」
(どっちだよ)
 半眼になって見下ろす獄寺を見上げて、山本は言う。
「獄寺に頼むって言われたら断れねえよ」
 惚れた弱みってやつ?
 弱った顔で笑って、山本は獄寺の手から二つ折りのメモとパスポートを受け取った。
「…」
「ツナのおじさんに、獄寺は行かねぇって伝えればいいんだよな?」
「ああ」
「りょーかい、そんじゃせっかくだし楽しんでくるな」
 ニッと笑って受け取ったものを胸の前で掲げる。時計を見ればもう遊んでいくような時間でもない。ベッドを降りてテーブルの上にメモとパスポートを置いた山本は、軽く獄寺の背を叩いた。
「送ってくぜ、獄寺」



 階段を下りて、挨拶をしに店の方へ向かおうとしたところで山本が「しまった」と立ち止まった。
「自転車の鍵!すぐ取ってくっからちょっと待ってな」
 引き返した山本が慌てて階段を上っていく。わざわざ待つのもなんだと思ったが、明日からしばらく会わなくなるのだしと獄寺は言われた通りに待つことにした。待ちついでにフラリと厨房を覗いてみる。今は誰もいない厨房に一歩足を踏み入れ、時間潰しに今日の夕食を当ててやろうと軽く見回してみたが、すっきりと片された後では殆ど手掛かりが掴めずで推測は困難だった。ヒントは片し忘れて調理台に置かれたままの砂時計だけ。麺でも湯がいたのかもしれない。とくれば、今の時期なら冷やし中華とか。
 砂時計を掴んで逆さにすると、クリーム色の砂がサラサラと流れ落ちていく。獄寺はそれをまたひっくり返して調理台へと置いた。砂はすぐに全て流れ落ちて元通りになる。
「……」
 無意識に漏れる溜息。やはりどうやっても気は逸れなくて、どっと調理台に凭れて獄寺は考え込んでしまった。
 海外旅行というだけで喜んで行ってくれたなら、こんな気持ちにもならなかったのに。

『獄寺に頼むって言われたら断れねえよ』

 ここで過ごす時間を大切に思っている山本は、それを犠牲にして、さして行きたくもない旅行に無理矢理行こうとしている。
 それは己よりも相手の望みを優先させた結果だ。
 対して自分は、山本ではない他の誰かの為に、そして己の面子を守るために。
 例え悪意はなかったとしても、彼の一番純粋な部分を結果的に利用したことに変わりはなくて。
 山本より、綱吉の方が大事。
 山本より、自分の方が大事。
 簡単に言えば、そう思った結果が今で、そこに嘘はない。そうだ、これが今の自分の正直な気持ちだ。
 そう、頭の中では非情に考えていても、実際は…

 自分とは正反対の答えで以って応えてくれた山本を見て、後悔にも似た遣り切れない気持ちでいっぱいになっている。

 獄寺、と呼ばれて振り返ると、捲った暖簾から山本が顔を覗かせていた。
「一人でもう帰っちまったのかと思った…わりぃ、お待たせ」
「ああ」
 あとはこのまま、いつもの二人乗りで家まで送られて終わる。明日の昼にはもう、山本は日本にはいない。
「…」
 踏み出した足を途中で止めた獄寺は、眉を寄せてしばらく迷い、それから、思い切ったように調理台に置かれた砂時計をもう一度手に取った。
 厨房を出て、先に廊下を行く背中を呼び止める。
「山本」
 店内の音が微かに聞こえてくる静かな廊下で、獄寺は振り返った山本に向かって砂時計を軽く掲げた。

「砂が全部落ちるまで…いいぜ、抱いても」
「え…?」

 きょとんと目を見張る山本の目前で、砂時計がくるりとひっくり返される。
 無意に流れ落ちていく砂の価値に気づいた山本は、理解に要した数秒を酷く惜しんだ。距離もないのに駆け寄って、もう戻らないその数秒間を取り戻すかのように獄寺の身体をきつく抱きしめた。
「―――…」
 三度目の抱擁も抱き返す手は無かったけれど、獄寺からはこれまでのような拒絶の声や動きは一切無かった。
 獄寺の背に回された手が細い身体の輪郭を辿っていく。少し強張る身体を抱きすくめようとする大きな手は、自然と上のほうへと伸びて獄寺の肩を掴んだ。Tシャツ越しに伝わる山本の体温と鼓動。家と同じ優しい匂いに獄寺は目を細める。
「急に、なんで?」
 強く抱きしめながら銀髪に頬を寄せて、山本は小さく訊ねた。
「…借りは作りたくねぇ」
 本当は違ってもそれ以外、適当な返答が見つからなかった。自分のこの行動を上手く説明できない。貸し借りの問題でもなければ、山本に対する詫びとも少し違う。ただ、このまま行かせたくないような気がした。
「俺、何も貸した覚えねえけど」
「オレには覚えがあるんだよ」
 ふ、っと山本が笑みを零す。
「頭がイイのも困りモンだな」
 そして僅かな間があいて、耳の後ろで笑んでいた声が突然、スッと真剣なものへと変わった。

「…俺が、おまえに惚れてるってことも覚えてる?」

 山本の指先に力が籠もる。緊張感をもって僅かに増した握力に少し息を呑んだ。
「こういうの、嫌じゃねえの?」
 問われて、獄寺は返答に窮した。それは山本の気持ちを知った時から、思い出しては度々問いかけていた自問でもあった。
 頭では拒絶して当然の過剰接触。だが実際に山本にこうして触れられてみると、不思議と不快に思わない自分がいる。
 それはとても不味いことに違いなくて…けれど、そうと解っているということは分別を忘れていない証拠でもあって、だから問題ないと自分に言い聞かせてきた。
「別にハグくらい…挨拶でもするだろ」
「あぁ…そっか、獄寺は向こう育ちだもんな」
 親しい人間と交わすキスやハグの挨拶は欧米の習慣だ。だが獄寺にとってその記憶があるのは城にいた頃まで…城を出て孤独を貫いてからは、そういった挨拶をする機会もすっかり失われてしまった。
 だから、獄寺がそんな習慣を逃げ道にするのはとてもおかしなことだったのだけれど。
 誰よりもそれを解っているのは他でもない獄寺で。
「じゃあ、これも挨拶と変わんねえってこと?」
「…」
 これが挨拶と変わりないものだと…そんなはずが無いことも、獄寺が一番よく解っていた。
「獄寺、俺…」
 何も答えることをしない獄寺を、山本は一層強く抱きしめた。
「獄寺には挨拶レベルかもしんねぇけど、俺は…好きな相手としか、こんなことしねぇよ」
「…」

 たとえその気持ちが冷めても、山本はもう、友達にはならないだろう。
 そして自分も、こんな風になってしまった山本をもう友達とは思い難い。 

 ならどうしていつまでも此処にいる。
 どうしてこんなことを許している。
 友達と思えないなら、この目が映している山本は一体何だ?
 これは一体、何を望んだ時間だ?

「砂、もう無くなっちゃうよな…」
 しばらくして、耳に頬を摺り寄せた山本がぽつりと言う。山本の肩越しに手の中の砂時計を見ると、さながら蟻地獄のように中心に窪みが生まれた砂は、ゆっくりと沈んであと少しで尽きようとしていた。
 次第に、心が物寂しさに支配されていく。
「…いや」

 獄寺は衝動のままに、砂時計をひっくり返していた。
「まだ、残ってる…」

 激しい鼓動が伝える警鐘。言い逃れも苦しいほどの己の異常行動に獄寺の思考がまごついた。
 心地よい体温と匂いに触れて、固く握り締めるは本音を映した砂の漏刻。
 砂漏の終わりを前にして起こったその一瞬の出来事は、探しても見つからなかった自問の答えが、初めてその姿を見せた瞬間だった。



(2008/01/19 up)


back