(この時間だったら家にいるわね)
研究に研究を重ねて漸く完成した特製のスタミナドリンクを抱え、ビアンキは弟の家へと向かっていた。修行が始まってもう5日目の夜。少し遅くなってしまったが、今からでもこの差し入れは十分に役立ってくれるだろう。しかしそれは例の如く世にも怖ろしい飲み物に仕上がっていたのだが、当人はもちろんその事に全く気づいていない。
ステンレスボトルを抱えて、美女は弟の喜ぶ顔を思い浮かべる。悲しいかな、記憶に残っている弟の素直な笑顔は幼い頃のままだ。ある事件をきっかけとして彼女の愛情が弟へと届かなくなってしまってから、もう随分な月日が経っていた。
(私には、このくらいのことしか出来ないけれど…)
己が道を信じ、厳しい修行に取り組んでいる弟へ。姉として何か少しでも支えになることが出来るのならと、ビアンキはボトルをぎゅっと抱えた。
弟に嫌われているのは知っている。これまでにも幾度となく、避けられていることだって。
愛情が届かないことほど悲しいことはない。けれど今はそれも仕方がないのだと思うようになった。家の問題に加え、弟はまさに反抗期な年頃でもあるのだ。だがビアンキはどれだけ避けられても、諦めずにいれば弟もいつかきっと分かってくれるだろうと信じていた。だって彼は、腹違いとはいえ唯一血の繋がった大切な弟なのだ。
ビアンキの首元には大きなゴーグルが掛けられていた。それは、夜の闇の中では本来決して使われることはないもの。
彼女の美しい瞳を覆うためのそれは偏に、弟への思いやりであった。
やがて弟の住むマンション付近へと辿り着いた時、ビアンキの瞳が自転車に二人乗りをする少年達の姿を捉えた。微かに笑い声の混じった話し声も聞こえてくる。
(…隼人だわ)
外灯の光で輝いた銀髪を見て、後ろで立ち乗りしているのは弟なのだとすぐにわかった。
そして、次に自転車を運転している者に目を凝らしてギクリとする。ビアンキは思わず、咄嗟に建物の陰に身を隠した。
(あれは、山本武)
本気で惚れられていることを知って尚、あの弟が離れずにいるという問題の少年だ。考えてみれば隠れる必要などないというのに、ビアンキは何故だか出て行けなかった。
(こんな時間まで一緒に…?)
もう夜も11時をとっくに過ぎている。まして修行の後で疲れているだろうに、わざわざこんな夜遅くまで会っていたのだとしたらそれは不自然なように思えた。
(…いえ、途中で会っただけなのかもしれないわ)
きっとそうよ、と近づいてくる二人に目を据える。
マンションの前へと滑らかに自転車を走らせた山本がキュッ!とブレーキをかけた。
「到着!」
「サンキュ」
影はあるものの、入り口の照明で彼らの姿が良く見える。遠いが、声も何とか聞き取れるくらいだ。覗き見なんてしたくないけど…、と息を殺す。正直、山本と二人きりでいる時の弟の態度が非常に気になった。
「…じゃあな」
「あ、待った」
自転車を降りた獄寺の二の腕を掴んで引き寄せ、サドルに座ったままの山本がボソボソと耳打ちをする。
言った後でニヘっと笑う山本に軽く片眉を上げ、獄寺は小さく溜息を吐いた。
「めんどくせえヤツ…」
一考したような小さな間が空き、それからゆっくりと、獄寺の爪先が45度方向を変えて山本と向かい合う。
周辺を軽く見回しながら、獄寺の手が山本の襟元を掴んだ。グイと引っ張り、近づいていく顔と、顔。
無理やりでもなければ躊躇いさえない。二人の唇は当たり前のように重なった。
ゴッ!ゴロゴロ…と、闇に覆われた建物の影から鈍い音が響き、びくりとして獄寺が身体を離した。
「!?…何だ?」
目を合わせ、互いに耳を澄ませてみたがもう何も聞こえてこない。わかんねえ、と山本が苦笑いをした。
「猫かなんかじゃね?」
「…」
納得を得ないものの、状況に何の変化があるわけでもない。音のした辺りに視線を走らせていた獄寺だったが、やがて気にすることでもないかと諦め、山本の襟から手を離した。
「獄寺、今日はありがとうな」
望み通りのキスも得て、至極満足そうに山本が笑む。その顔に同じだけの満足感を覚えながら、獄寺は山本の胸にドンっと拳を落とした。
「ガンバレよ、修行」
押し付けられた白い拳を、大きな手が上からぎゅっと包み込む。
「ああ、獄寺も」
「…オヤスミ」
「おやすみ」
そして最後に、二人の手は名残惜しそうに離れた。
暗闇の中、一部始終を目にしたビアンキは愕然としていた。
(…そんな)
足元のコンクリートの上には、ステンレスのボトルが転がっている。
(嘘でしょう…)
俯いた美女の長い髪が、重く揺れた。
*****
幸せな時間というのは、いつもあっという間に過ぎてしまう。そして後は心を支配されて夢現の状態だ。
ここ数日、表向きは風邪で休んでいたためだろうか。授業中に心ここに在らずな状態で全く問題に答えられずとも、山本は怒られることなくむしろ心配されてしまった。
本当に風邪で調子が悪いのならそれも気にすることはないのだろうが実際には全く違うわけで。心配されて少し弱った顔をしたものなら『あまり無理はするなよ』などとさらに心配されて山本は本当に困った。
(俺が風邪ひくとかマジで有り得ねえもんなー)
心配されてしまうのも頷ける気がする。普段、自分がどれだけ元気なのかを思わぬところで実感してしまった。
『獄寺のことを考えてました』なんて、ボーっとして顔を火照らせている本当の理由を話したなら、教師もきっと教科書で頭をはたくに違いない。
獄寺のことと、今夜から始まるヴァリアーとの対戦のことで頭が飽和状態になっている。正式に例の剣士が対戦相手だと判ったことによる高揚感と、獄寺が思いのほか気持ちを覗かせてくれたことによる幸福感とで昨夜は殆ど眠ることが出来なかった。
今までにも大会前などで、興奮のあまり眠れないなんてことは多々あったものの、しかし、眠れないとは言っても結局はいつの間にか眠ってしまっているのが常だったのに。
朝になっても気持ちが落ち着かずに、今日は修行の続きも中止して学校へと来てしまった。自然と足が学校へと向かうくらいだから、自分の心はとても解りやすい。
ここまで心鎮まらない原因の大半は、ヴァリアーではなく獄寺にあるのだろう。学校へ行こうと思い立ったのも、もしかしたら獄寺に会えるかもしれないとの期待があったからだ。
(今日もすげーキレイだったし)
陽の下でキラキラと輝く、彼の姿を思い出して熱い溜息を吐く。通学途中に期待通り会えたのはやはり運命というべきか、山へ修行に行くと言われてすぐに別れてしまったために顔を見れたのもほんの数分だけだったけれど。
(かえって生殺しだったよな)
指一本触れられなかったのはもはや殺生だ。綱吉もいたから仕方がなかったのだが、その心地よさを知ってしまっているだけに目の保養だけというのは些か辛いものがあった。
(つーか、大丈夫かな俺)
ようやく手に入れた貴重な時間とあって、昨夜はめいっぱい充電をしたはずなのに一日も経たないうちにもう足りなくなっている。昼休みになって堪えきれず、今いる場所を教えてほしくて『会いたい』とメールを打ったら、いつもの調子で『ウゼぇ』としか返ってこなくて山本は少し凹んだ。
一分一秒でもいいから会いたい。会って、触れていたいと思うのだ。考えすぎて、自分でも病気なんじゃないかなどと心配になってしまう。
そんなもんかな?と考え、そういうもんだよな、と一人ごちた。
(だって獄寺、スゲー可愛いんだもん…)
熱い呼吸に、とろんとして溶けそうな緑の瞳。肌に触れて感じる温もりとその滑らかさ。促せばぎこちなくもちゃんと応じて、向き合えば背中に手を回して抱き締めてくる。情事中の獄寺が意外にも素直であるのは、初めて触れ合った時にも感じたことではあったけれど、山本の心を鷲掴みにしているのはそれだけではなかった。
『最後にもっかいだけ、キスさせてくれねえ?』
引き止めて駄目もとで言ってみれば、お馴染みの呆れ顔に如何にもな溜息。それでも。
『めんどくせえヤツ…』
素面でも、望みを叶えてあの場でキスをしてくれたのは破格の行為だろう。さらに『おやすみ』と言った後、名残惜しく手が離れる直前に緩く指先を握られて山本は見事に昇天した。
(あのごくでらがごくでらがごくでらが)
愛しさで胸が苦しくなって、歓喜に震えるほど感動した。ほんの一瞬の握力に、熱を分け合う行為以上の愛を感じてしまったのはそこに快楽という逃げ道がないからか。
踊りだしそうなほどに嬉しくて、玄関ドアの閉まる音が微かに聞こえてくるまでその場を動けなかったくらいで。
(俺ら、すっげぇラブラブじゃね!?)
頭の中では一面にお花畑が広がっていて、危うく旋毛から花が一輪、ポコッと顔を出してしまいそうな気さえした。気を抜けばすぐにぼーっとして確実に顔が緩んでいる。早く気持ちを入れ替えねえと、と今日一日何度唇を噛んで堪えてきたか。
そして現在。
放課後になって野球部の部室を訪れていた山本は、友人を前に遠慮なく顔を緩ませていた。
「でさぁ!」
うんうん、と友人の恋話に耳を傾ける。喜ばしい話なだけに思いのまま頬を緩めていても何の不思議もないというわけだ。共感できる話とあらば聞いている方だって楽しい。惚気話など普通はまともに聞いてもらえないのが世の常だが、少年も山本が楽しそうな顔で聞いてくれるものだから嬉しくて仕方のない様子だ。
彼は以前、わけあって部室で山本に思い切り抱き締められているところを意中の少女に見られてしまったという、とんでもない被害に見舞われた憐れな少年だ。しかしその後、彼は必死になって彼女の誤解を解くことに成功。それを機に互いによく話すようになり、とても気の合うことがわかったおかげで数日前にめでたく二人のお付き合いが始まったらしい。
「親が旅行に行っててメシ作んの大変なんだって言ったら、作りに来てくれてさ!」
部室でダラダラと話していても怒られないのは今日が活動日ではないからだ。忘れ物を取りに来た少年と、ここ数日のメニューを見ておこうと活動日誌を見に来た山本とが椅子に座って話し込んでからもう20分ほどになる。
これまでにも何かしら進展があればちょくちょく聞いていたものの、正式に報告を受けたのはこれが初めてだ。おまえのおかげだと厚く感謝され、初めて行った水族館の話からこんこんと始まった惚気話…活動日誌も殆ど目を通されることもなく、山本の手の中で遊ばれている状態だった。
「へえ〜、何作ってくれたんだ?」
「カレー!つーかエプロンっていいよな…写メったら怒られたけど」
取り出した携帯をカチッと開いて「ホラ超可愛くね?」と向けられた待ち受け画面をまじまじと見て、山本は「へぇー」と言いながら余裕の笑みを浮かべた。
(あー、絶対ぇ獄寺のが可愛い)
いっそ俺も自慢したい、と自分の携帯に手が伸びそうになる。ウズウズとする気持ちを抑えて「やっぱエプロンは男のロマンだよなぁ〜」と山本が感慨深く返すと、友人の少年は「だよな!」と嬉しそうに笑った。
「そんでカレーがまたすげぇ美味かったんだよなあ!しかもカツ付きだぜ!」
完璧じゃね!?とだらしなく頬を緩める友人に、山本はまた心の中で密かにツっこむ。
(甘いぜウッチー)
(獄寺はなぁ、さらにそこへ超半熟たまごなんて乗っけちゃうんだぜ…!!)
(しかも固形のルーとか使わないんだぜ!!粉から作っちゃってるんだぜ!!)
(すげくね!?)
「でさー、食ったあとで一緒に」
話の続きを聞きながら、喉まで出かかっているそんなたくさんの言葉を、山本は唇を噛んで何とか飲み込んだ。
(こういうのって…ちょっと苦しいよな)
言いたいけど、言えない。獄寺には、付き合っていることは誰にも言うなと固く口止めをされていた。こんな異色のカップルなど、校内で一人にでも漏らせばあっという間に広がってしまうのは目に見えているようなもの。獄寺が口止めをした理由は言わずもがな、回り回って綱吉に知られるのを恐れたためだろう。
(ツナは、わかってくれっと思うけどな)
そういうことじゃないんだよな、と山本は小さな溜息を吐く。理解を得たところで、綱吉が二人に気を遣うようになるのは必至だ。そうなると、3人の関係を保っているバランスが嫌でも崩れてしまうから。
獄寺にしたら、綱吉に気を遣われるというだけでアウトなのだろう。それはわからないではない。気兼ねない今の関係が壊れてしまうのは自分とて嫌だ。
けれど、一番の親友にも伝えることが出来ないのは、騙しているような気さえして心苦しいという気持ちもある。
(ツナに話して、黙っててもらうってのはムリかな)
となると逆に獄寺を欺くことになってしまうけれど。いや、そもそも友人二人の交際に綱吉がショックを受けないという保障もどこにもなくて。
(いつも一緒だもんな…いつも通りにしてくれっつっても、難しいかもな)
いくら考えても最後に出てくるのは溜息だけだ。タイミングの問題もあるかもしれないが、やはり今は綱吉にさえ言えそうにない。
「いいなぁ、マジで、すげぇ羨ましー…」
心底から出た、紛れもない本音だった。何の障害もなく、思う存分幸せを吐き出せる友人を見て素直に思う。他人を、こんなにも羨ましいと思ったのは初めてだ。
自分だって獄寺とのことを自慢したい。
そして「いいなぁ」って言葉に、「いいだろー!」と幸せいっぱいに笑って返したい。
「へへ」
友人の少年が頬を掻きながら、照れくさそうな顔で満足気に笑う。
自分の今何よりの望みが、まさに目の前で体現されているのに羨望の眼差しを向ける。返す笑みも、自然と眉が下がってしまうのは仕方がなかった。
***
「あれ?」
部室の鍵を返しに行った後、昇降口へと向かった山本は自分の靴箱の前で意外な人物を目にして驚きの声を上げた。
「ビアンキ姉さん!」
「山本武…」
壁に預けていた背を起こし、美女がゆらりと向かい合う。全く神出鬼没な人だと思う。まさか放課後のひと気のない昇降口で彼女に会うとは到底予想もできまい。
「どうしたんスか、こんなとこで…獄寺は学校には来てないっスけど」
「知ってるわ、そんなこと」
すげない返事。見つめてくる眼差しにはナイフのような鋭さを感じる。要するに、思い切り睨まれているわけだが。さすがにこれほどの美女が睨むとそれだけで怖ろしいものを感じる。
「え…と、ツナ?なら、もう帰ったと思いますけど」
「そんなこと、誰も聞いてないけど」
「…」
(なんかすげぇケンカ腰だし…)
どうやら弟に会いに来たわけでもなく、綱吉を探しているわけでもない。うーん、と山本は頭を捻った。もとより彼女が誰の靴箱の前に立っているのかを考えれば、目的の人物は用意に想像がつく。
(やっぱ、俺?)
視線を戻すとビアンキの右手に、先程までは持っていなかった毒々しいケーキが装備されていた。少し斜めに持たれているあたり、嫌な予感が拭えない。
「…ケーキ投げかなんかの、練習中…っスか?」
「そう見える?」
「いえ…」
引き攣った笑みを作りながら、まさか俺にぶつけてこねえよな?と山本は心中で冷や汗を掻いた。直径20センチ程の、紫色のホールケーキがこちらを向いているのはきっと気のせいだ。
「俺に、何か用事とか?」
「…―――」
何かを言おうとして柳眉を歪め、美女は口を噤んだ。小さく唇を噛んだのが、山本の目にも解った。
「…」
「…」
西日に照らされた静かな廊下の向こうから、生徒の笑い声が聞こえてくる。
何か言いたげなのに、ケーキを片手にジッと睨み据えながらもビアンキは何も言わなかった。言いたいけど言えない、といった表情にも見えた。奇妙な間に飲み込まれて時間だけが過ぎていく。
(…そうだ俺、獄寺とのこと)
彼女は、この獄寺への恋心を知る唯一の人物であり獄寺の身内でもある。この人には報告をしてもいいんじゃないかと、いや、しておくべきだろうと、山本は背筋を伸ばした。
「あの、俺、ビアンキ姉さんに話したいことが」
「私を姉さんだなんて呼ばないで。聞きたくないわ、あなたの話なんて」
「!」
その言葉に山本は目を見開いた。ビアンキの不可解な態度をようやく理解する。
もう知っているのだ、この姉は。どこで知ったのかはわからないが、弟の交際を知り、何かを言いたくてここへ来たのだろう。
(姉さんって、そういう意味で言ってたわけじゃねえんだけど…)
手厳しいな、と山本は少し苦い顔をした。鋭い視線と毒々しいホールケーキ。相手として認められてないのだと、痛いほど感じる。
(そりゃ弟の相手が男じゃ、嫌かもしんねぇけど)
自分達はちゃんと気持ちを同じくして付き合っているのだ。自信を持てと頷き、伝えるべきことはしっかり伝えなければ、と山本は強く拳を握る。
「俺、獄寺のこと」
『一生、大切にしますんで!!』
しかしそう続くはずだった言葉は、か細い声に遮られた。
「…―――ただって、あの子に嫌われてたはずなのに」
「え?」
何かを零したビアンキの表情が悲痛なものに見えて山本は息を呑んだ。思わず眉を下げて歩み寄る。
「あの…大丈夫、っスか?」
「それ以上、私に近寄らないで」
本気で投げるわよ、とケーキを向けられて山本は歩みを止めた。放課後の部活動の音をバックに、また沈黙だけが流れていく。
「…ひとつだけ、聞かせて」
「?」
美女がゆるりと顔を上げた。
鋭さの萎えた瞳の奥に見えたのは、苛立ちと、苦悩と、痛々しい程の―――
「隼人は、どうやってあなたを好きになったの?」
(2008/08/24 up)
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