中学野球、夏の県大会。
 準決勝・第2試合。 

 地面を焼く強い日差しのせいでグラウンドが揺らめいて見える。人の体温をゆうに超えた気温はただそれだけで気力と体力を奪っていくようだ。
 昼過ぎの凄まじい炎天下で、全力でもってプレーを始めようとする青春真っ盛りな選手達を遠目に、至極冷ややかな目で「奴ら、集団自殺でも図る気ですかね?」と獄寺が綱吉に零してから、おそよ2時間が経とうとしていた。
 この一番暑い季節に、最も暑いだろう思われる場所で、全力で身体を動かす。暑さに弱い獄寺からすればそれは正気の沙汰ではない。
 スタンドでの応援とて同じことが言えた。本来なら絶対来ないだろう山本の応援に何故来ているかと言えば、獄寺の慕い敬うボス、沢田綱吉の誘いがあったからに他ならない。
 だらだらと、額から出た汗が頬を伝って顎へと流れていく。服も汗で濡れて気持ちが悪い。スタンド席でじっと見ているだけでこれなのだから、グラウンドでプレー中の選手は堪ったものじゃないだろう。
 何度も何度も、耳に胼胝が出来そうなくらいに繰り返される応援歌にもいい加減イライラしっぱなしだ。
(さっさと終わりやがれ)
 獄寺は本日3本目のペットボトルに口をつけた。
「次、山本だ!」
 興奮気味にそう言って腰を上げたのは綱吉だ。京子とハルに続き、メガホンを持ったフゥ太もランボの手をしっかりと握って立ち上がる。
 最終回、並盛中最後の攻撃。
 2アウト、走者2名。6対5で相手チームが1点リード。もう後のない、ここ一番の勝負どころだ。
 金属バットを手に、すらりと背の高い少年が軽く肩を回しながらバッターボックスへと向かう。
「山本頑張れぇーっ!!」
「がんばって武兄ぃーっ!」
「がんばってー!!」
「頑張ってくださぁーいッ!」
 うだるような暑さの中、漸く迎えた最終場面を前にして声援にもグッと力が入る。
 まさに逆転サヨナラのチャンス。バッターボックスに立った山本が静かにバットを構えた。鋭い目で真っ直ぐに投手を見据え、口角をキュっと締める。
 打ってやる、という熱い気迫が全身に満ちていた。
 捕手が出した合図に、投手が静かに頷く。
 ――― そして。


 試合は得点に何の変動もないまま、並盛中学野球部は敗退した。


「ごめんなー、負けちまってちょっと空気重いけど!今日は応援に来てくれてありがとうな」
 試合後。球場のロビーで、申し訳なさそうに眉を下げながら山本が笑んだ。敗戦後の選手達を近くにして少々沈んだ空気の漂う中、「え、そんなっ、謝る事ないよ!」と首を振って一番に口を開いたのは綱吉だった。
「ほんと惜しかったよね…でもすごく頑張ったよ!なんたって並盛中が県大会で準決勝までこれたんだもん、めちゃくちゃ凄いよ!!」
 綱吉の言葉にハルや京子も頷く。
「はい!それに七夕のお願いも叶いました!県大会ベスト4入りでしたもんね!」
「来年はきっと決勝までいけるよ、山本君ほんとに凄かったもん!」
 大した慰めにならないことはわかっていても、皆、何か言わずにはいられなかった。それほどに口惜しい試合だった。
「ああ、ありがとな」
 親友達の力一杯の慰めに山本がいつもの笑顔を見せる。人がいる割に静かなロビーの奥、少し離れた所で煙草を吸いながら、壁に凭れてその様子を見ていた獄寺が溜息の混じった紫煙を深く吐き出した。
(アイツも結構、難儀な性格してんな…)
 能天気で、何の悩みも苦労もない奴だと思っていた。だからいつもあんなに笑顔で人を受け入れていられるんだと。…でもどうやら違うらしい。
(ヘラヘラ笑いやがって)
 悔しい時に悔しい顔をせず、悔しいとも言わず、懸命に慰める友に気を遣ってすらいる。慰めを受けて山本が笑むと、周りもホッと安心したように笑顔を見せる。同情されるのが嫌なのか、それとも周りに心配をかけたくないのか。辛い時でも悲しい時でも、同じように傷を隠して笑っているんじゃないかと、獄寺はそんな気がしてならなかった。
 いつも人に安心感を与えている彼の笑顔は、実は相当厄介なものらしい。
(めんどくせぇ奴)
 最後にフィルターを軽く吸って、備え付けの灰皿に獄寺はギュッと煙草を押し付けた。ロビーの自販機で冷たい缶コーヒーを買い、一人、いまだ暑さの厳しい外へと出ていく。
 山本の上っ面の笑顔など、見ていたくなかった。


*****


 夜の7時を回っても夏の空はまだ夜が降りない。たっぷりの水で薄めたような赤と橙のグラデーション。沈まんと粘っている夕陽が、まだほんのりと並盛の空を照らしていた。
「すいません10代目、夕食までご馳走になってしまって…ごちそーさまでした!」
「ううん、こっちこそ母さんが強引にごめん。ランボもうるさくて落ち着いて食べれる状態じゃなかったし」
 ランボ、エビフライの時はいっつもああでさ…と綱吉が呆れて笑う。確かに、はしゃぐ幼児からおかずを死守せねばならずで忙しない食卓だったが、愛情籠もった美味しい手料理で腹が満たされれば何の文句があろう。
「アホ牛の奴はオレが今度、がっつりシめときますんでっ」
 綱吉の母の手前、食事中は大人しく黙っていた獄寺だったが本当は一発拳を落としてやりたくて仕方なかったのだ。グッと拳を握って笑顔で告げると、「はは」と綱吉は苦笑いをした。
「今日は一緒に来てくれてありがとう、助かったよ。駄目もとで誘って良かった」
「そんな、10代目のお誘いとあらばいつでも!」
 女子供で賑やかな中、男一人ではどうも心許なかったのだろう。助かったよ、という言葉を頭の中で何度もリピートする。ささやかながら役に立てた喜びで獄寺は胸が一杯だった。
「山本も喜んでたよ、獄寺君が来てるの見て」
 頭の中の幸せなリピートがピタリと止まる。行ったのは山本のためだと思われたくなくて、球場でもわざと席を外して一言も話さなかったのに意味がなかったらしい。心の中で小さな舌打ちをし、綱吉には「そっスか」と軽い相槌を打つ。
「…山本、大丈夫かな」
 突然にそう言って、綱吉の顔が曇った。
「普通に笑ってたけど、なんとなくいつもと違ったっていうか」
 憂う瞳を少し伏せて、そこで言葉が途切れる。そうだ、と獄寺は眉を下げた。自分でさえ気付いた山本の異変に綱吉が気付かないはずがないのだ。下手な芝居しやがって。心中でここにはいない少年に毒づく。
「大丈夫っスよ」
 打って変わって獄寺はパッと明るい笑顔を見せた。
「月曜にはいつもみたいにケロっとしてますって。ああいうバカは、一日寝れば大概のことは忘れるんスよ」
「そうかな…だと、いいけど」
「明後日になってもまだウジウジ凹んでたら、オレがぶん殴ってやりますから」
 まかせて下さい!と親指を立てる獄寺の懸命な慰めに、綱吉が少し笑みを取り戻した。うん、と安心して小さく頷いた少年が、その笑みを深くする。
「へんな言い方だけど…獄寺君、最近山本のことちゃんと見てるっていうか…山本と少し仲良くなったよね」
「え?」
 意外な言葉に獄寺は目を丸くした。綱吉がやけに嬉しそうに笑う。
「今日の試合の時だって、オレ達の中で一番悔しそうだったのって獄寺君でさ!…オレ、なんか嬉しくて」
 噛み合いの悪い二人の間で板挟みになって、ずっと苦労をしてきた綱吉だった。しかし最近はそれも落ち着き、二人の間に幾分か和が取れるようになって言葉通り嬉しいのだろう。周りのことを考えず、協調性を欠片も見せなかったのは他でもない自分で。想像以上に迷惑をかけていたことが申し訳なくて獄寺は頬を掻いた。
「ああいう…」
 そして。最終回の攻撃、真剣な面差しでバットを構えた山本の姿を思い出す。
「肝心な時に、力を発揮できなかったって悔しさは…わからないでも、なかったので…」
 途中、少し歯切れが悪くなった。脳裏に甦ったのは幼い日の苦い記憶。
「でも、前半は気のせいですよ10代目。オレは山本のことなんてどーでもいいッスから!」
 そう言って獄寺が否定しても、綱吉の笑みが消えることはなかった。全く信じてもらえてない証拠だったが、これ以上言葉を打ち消してがっかりさせるのも何やら気が引ける。確信を持ってしまった綱吉の笑顔に獄寺が弱った。
「獄寺君って優しいよね」
「じゅ、10代目ー!?」
 思い掛けない言葉に度肝を抜かれ、「とんでもないッス、自分なんか!!」と手を振って必死に否定する獄寺に、綱吉はただ困ったように笑うしかなかった。



 日暮れ前ともなれば、さすがに暑気も治まって歩きやすい。沢田家からの帰り道、コンビニで明日の朝食を買って行こうと獄寺は少し遠回りをした。歩きながら、物思いに耽ってふと空を見上げる。まだ西の空は赤く染まったままだが東の空からは確実に夜が追ってきていた。ゆっくりと闇に侵食されていく空。日暮れの空は妙に侘しく、どこか人の心を感傷的にさせた。
 苦い記憶と共に甦ったのは、幼い頃に幾度も聞いた名も知らぬ小曲。それを奏でる慈しみに満ちた柔らかなピアノの音色。二人きりの、演奏会。
 細く長く、今にもどこかで千切れてしまいそうな記憶の糸を伝って、その曲はいつも頭に流れ込んでくる。タイトルも知らなければ楽譜も無く、今はもう思い出の中でしか聞くことが出来ない。おそらく知っているのは自分だけで、世にも知られていないだろう。
 幼くして突如聞けなくなってしまったその曲を、その音色を、恋しさと共に追いかけた。記憶を手繰り、耳が覚えている音を鍵盤に乗せて、今よりもずっと小さな手で練習に練習を重ねて何度も何度も。
 そうして漸く、心に深く沁みるようなあの音色はまだ真似できずとも、曲だけは最後まで奏でられるようになって。
 忘れもしない、城のパーティでの初めての演奏会。披露するならこの曲しかないと決めていた。日の目を見ることのなかったこの思い出の曲を、この手で聴いてもらうんだと。
 それなのに。
『隼人のために焼いたんだよ、食べて』
 そんな言葉に絆されて、何一つまともに弾けなくなって。
『素晴らしい!前衛的だ!!』 
(ふざけやがって)
 あのイカれた演奏で本当に、心の底からそう思ったのか?
(オレが弾きたかったのは…)

 細く途切れそうな記憶の糸を手繰って必死に習得した曲は…あんなものじゃなかったのに。

「……」
 過ぎた日の思い出には無数の棘が残っていて、触れれば刺さって胸に鈍い疼痛を生む。少し気が重くなって獄寺は煙草に火をつけた。コンビニに向かい、公園の外の細い道沿いを歩いていく。緑で満ちた小さな公園は外からの視界がやや悪く、防犯面に欠けるためか普段からあまり人気が無い。遊具も少なく、子供の遊び場というよりは近所に勤める会社員の昼食場に利用されることが殆どの場所だった。
 外から何気なく公園内を見遣った獄寺はピタリと足を止めた。公園のベンチに一人座っている人物に気付いて、目を見張る。一体いつからそこにいるのか、ぐったりとベンチの背もたれに腕を乗せ、ぼーっと空を見ている少年は遠征時の制服のままで荷物も傍にあり、おそらくまだ一度も家には戻っていないだろうことが見てとれた。
 あの後、試合後のミーティングがあるからと、山本とはそのまま球場で別れて後の行動など知りようもない。だから、獄寺が彼を見たのは本当に偶然のことだった。



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