今やはっきりと思い出せるわけではないけれど、確かに知っている。
掴んだ腕のしなやかさや手の感触、その温かさ。抱きしめれば余裕で納まってしまう細い身体も、鼻腔をくすぐる首筋の香りまでも。
日本には挨拶に抱擁を交わす習慣はない。後者など友達という間柄でも知っているのはおかしな事だろう。叶わぬ想いといえど、それらを感じられたことを幸せに思った時もあった。しかし僅かにでも知ってしまった体感は、次第に獄寺と過ごす時間を居心地の悪いものへと変えていってしまった。胸にあった淡い期待でさえ鳴りを潜めてしまうほどに、邪念を増長させるきっかけとなってしまったそれらは果たして本当に知って良かったことなのか。もし知らずにいたなら、傍にいることを後ろめたく思うこともなかったかもしれない。
友達と呼ぶのも難しく、近づくのが精一杯だった過去を思えば二人の距離は驚くほど近づいた。幾多の僥倖に恵まれたおかげであることは拭えないが、夕食時からマンツーマンの個人授業まで、ほぼ毎日二人きりで過ごすその数時間に獄寺の心を解してきたのは間違いなく山本の力だった。
食事を褒めた時、何気ないやり取りの中でも、獄寺が気を許したような穏やかな笑みを見せるようになって、その度に山本は日々の積み重ねの大切さを思い知ったものだった。
近づいて、知れば知るほど、好きになっていく。距離が縮まれば自ずと欲が顔を出した。人の心は欲が絡めば純粋さを損なう。一つ一つ箍が外れていくと同時に芽を出し始めたのは、山本を困苦させる粗野な衝動だった。
触りたい、感じたい
当然、そんな簡単な言葉で収まるはずもない衝動。奇しくも恋心とは、清らかな響きを持ちながら性欲と密接に繋がって切り離せないもの。そうでなければ、友達で十分なはずなのだから。
一度知った味は、友達であろうとする山本の心を激しく揺るがせた。
(煩悩退散ッ!!)と心に唱えながら力一杯バットを振っても、そんなものは一時凌ぎにしかならないわけで。邪念を根こそぎ消し去りたければ出家でもするしかない。
最近、山本の様子がオカシイとは野球部員の間で専らの噂となっている。いきなり急降下で沈んだかと思えば次の日には上機嫌でやってきたり、かと思えばここ数日は眉間に皺を寄せて無言で練習に打ち込んでいるのだから噂にもなるだろう。珍しく不機嫌そうな山本は遠目には魅力が増すのか、フェンスの向こう側からは普段以上に黄色い声援が飛んでいたが、傍で練習に励む部員達からすれば顰め面の山本はただ怖いとしか思えない。
山本が怖い、という部員達の訴えを聞いて、3年主将が重い腰を上げたのが今日のこと。
「何か悩みがあるんなら聞くぞ」と言った先輩の問いに、山本は答えずにただ一言「除夜の鐘って夏はやってないんスかね」と呟いた。
何を悩んでいるのかサッパリわからないまま、何やら切羽詰った様子で重い溜息を吐く山本を見て3年主将がしてやれたことといえば、己の秘蔵本を手渡すことぐらいだった。
渡された手前しっかり持って帰ってきてしまったが、エロ本なんて逆効果も甚だしい。貸してやるから元気を出せと言われても困ってしまう。悩みを明かさなかったのは自分で、的外れな対処も仕方がないのはわかっているが、本当の事を言えるはずもなかった。
触れたいと思って触れられるなら、こんなに苦しいことはない。だからといって自分の欲望を満たそうとすれば、代わりに獄寺を苦しめることになる。自分が苦しむか相手を苦しめるか、どちらかを選べと言われたら良識ある答えは決まっている。まして今の関係を壊すことになれば獄寺だけではない、自分だって苦しいのだから尚更答えは決まっているようなものだ。
笑った顔が見たいと思う、極めて純粋な気持ちは常に胸にある。そして、どんなに報われなくても惚れた相手に対してこの真っ直ぐな気持ちだけは決して忘れてはならないということも。
だからその邪魔をする邪念を取り去る術があるのなら、今は何にでも縋りたかった。
除夜でなくとも、もし108あるという人間の煩悩を除去する鐘を鳴らせるのなら、今夜にも心を籠めて撞きに行きたいなどと本気で考えるくらいに。
(もう出家するしかねぇのかな)
山本はゴン、とテーブルに額を打ち付けた。最後に綴っていたtの横棒が切れることなくズルズルと伸びていく。
「またかよてめぇ…」
テーブルに突っ伏して動かなくなった山本に獄寺は眉を上げた。ダン!と拳が強くテーブルを打つ。
「おまえはマンガン電池で動いてんのか!?集中力切れんの早すぎんだよ!」
休めばちょっと回復するあたりが良く似ている。テーブルに肘を突いて額を押さえた獄寺は大きな溜息を吐いた。
夏休みも残り4分の1程となって宿題も残すところ国語と英語のみになった。今日やり進めたのは英語のプリントだ。英語の比較表現も最上級の項目に差し掛かり、難易度は上がりつつも多かった問題にもようやく終わりが見えてきた。しかし今日のノルマも残すところあと一問というところでまた山本の電池が切れてしまった。
夕食後の個人授業は偏に集中力との勝負だった。だが野球ならともかく嫌いな勉強で集中力が続くはずもなく、授業はいつもすんなりと終わった例がない。問答無用で消されてしまう野球中継の点差も気になれば、目の前には堪らなく好きな子がいる。集中力を削ぐ誘惑が多いだけに山本からすれば仕方がない。そうして山本の集中力が切れてしまうと、獄寺は一服ついでに5分程度の軽い休憩を挟んでくれていたのだが。
「もう休憩はしねぇぞ。あと一問だろうが、もうちょいガンバレ」
「…」
ガンバレの響きに山本の耳がピクリとする。それは試合前にも是非言って欲しい言葉だ。面倒そうな口調に混じった温かい声色も胸にグッとくる。
(優しくなった、よなぁ)
ちょっとしたことでも山本はしみじみ思ってしまう。始まりが最低ラインなだけに余計にそう感じるのかもしれない。獄寺のことを気になりだしたきっかけは見た目かもしれないが、本当に惚れたのは不器用な彼の優しさを感じてからだ。なかなか他人を受け入れようとしない獄寺はどうしてもキツイ印象が拭えないが、根はとても優しいのを知っている。気がつけば、気まぐれに発動する彼の優しさに、笑顔に、心をがっちり鷲掴みにされてどうしようもないくらいに気持ちは膨れ上がってしまった。
「オイ、さっさと起きろポンコツ」
「ポンコツって、ひでぇ…!」
テーブルから顔を上げた山本は次の瞬間、息を凝らした。
「ハハ」
軽い笑い声を添えた笑顔に、自分でもわかるほどに心臓が跳ね上がる。そのうち悩殺でもされるんじゃないかと見惚れながら、山本は堪えるように拳を握った。抱きしめてキスしてえ、という衝動の波を抑えこんで深く息を吐く。それ以上のことも考えるなと、すぐさま自分を叱咤した。
そんな山本に気付くこともなく、獄寺の細い指がトン、とプリントの最後の演習問題を叩いた。
「最後、さっさと片付けるぞ」
(5)彼は3人の中で一番早く走れます。 He can run ( )( )( )( ).
「まずは『3人の中で』ってのを抜いて考えてみろ」
気持ちを紛らすのにもちょうどいい。最後の一問に集中しろ、とプリントに向き合う。心強いナビを元に山本は懸命に頭を捻った。
「速いはfastだろ…」
あと、theとestをつけて最上級を作る。不規則変化にだいぶ悩まされたが比較級や最上級の作り方は復習問題で散々やってきた。
「the fastest」
「そう、He can run the fastest…で、あとは文末に『3人の中で』をつけ足すだけだ」
いかにも簡単そうに言うが、それがパッとできれば苦労はしていない。ん〜、と小さく唸りながら捻り出した答えを山本は自信なさ気に述べた。
「い、in three people?」
案の定、獄寺が左右に首を振る。
「違う、inを使うのは家族なんかの集団や場所を表す時だ。数字や複数名詞が後にくる場合の前置詞はofを使う。あと数字の前にはtheがいるからな、忘れんなよ」
(…さっぱりわかんねぇな)
ofとtheを使うという要所以外は完全に右耳から左耳へと流れてしまった。しかしそんなことを言うと怒られそうなのでとりあえずは解ったふりをしておいて、山本はまた頭を捻った。
「of…the three…」
(peopleっていらねぇのかな…でも入れちまうと( )足りないしな)
悩んでいる間に獄寺が「そう、それでいい」と頷いたので、よくわからないうちに英文は完成したらしかった。忘れぬうちにと黙々と書き込んでいると問題が発生した。
「あー、待て、まだ続きが」
「んー?( )が足りなくね?なんでだ?書き忘れか?」
しょうがねーなと文末に( )マークを足すと、凄まじい勢いで頭にチョップが飛んでくる。
「書き足すな!オラ、ここ、副詞の前のtheは省いていいんだ、だから『He can run fastest of the three.』だ、 これで( )の数も合うだろ」
理解が追いつかずに山本が口を引き垂れる。付けろと言われて今まで散々theとestを付けてきたのに、今になってtheはなくてもいいと言う。意味のわからなさにこればっかりは山本も質問をした。
「え、じゃあこのtheとかもほんとはいらねえの?」
前問で使った『the tallest』のtheをシャーペンの先で指すと、獄寺は「なんでだよ」と眉を顰めた。
「これは形容詞だろーが。省いていいのは副詞の前だけだ」
「!?」
山本は驚愕した。
「え…」
これまで何も考えずに一つ覚えよろしくtheとestをつけていたが、それぞれの単語には理解の及ばぬ違いがあったらしい。
(形容詞は聞いたことある、けど…フクシって何だ)
聞き覚えがあるかどうかのレベルでグルグルと頭を回しても、到底答えに辿りくつはずもない。無言で考え込んでいた山本はやがて路頭に迷った犬のような顔をして項垂れた。
「ごくでら、俺」
「言うな…聞かなくてもわかる」
しょうがねぇな、と溜息と共にプリントを裏返して書くスペースを確保した獄寺は、そこへサラサラといくつかの例文を綴って山本へと向けた。
「いいか?形容詞も副詞も修飾語でややこしいけど、こうやって覚えろ。形容詞は名詞を、副詞は名詞以外を詳しく説明してるモンだ。例えば―――」
(修飾語、ってなんだっけ)
そこで山本の思考回路は遮断された。出だしで躓けば後が続くわけがない。集中力が切れ、山本は再びゴン!とテーブルに額をぶつけて突っ伏した。
「なっ、またかよ!てめぇはもうちょっとくらい頑張れねぇのか!」
その時、外の異変を知らせる音に気付いて獄寺は口を噤んだ。初めは小さな音だったそれは次第に激しさを増していく。
居間はやがて豪雨の音に包まれ、思わず二人は顔を見合わせた。
「なんだ…雨か?すげぇ音だな」
「マジかよ、雨の予報なんて聞いてねぇぞ」
獄寺が腰を上げて窓へと向かう。シャッとカーテンを開けると、そこは狭い路地であったものの大雨の様子は十分に伝わった。
「止むんだろうなこれ」
「止まなかったら…、俺の傘貸すからさ」
「ああ」
悪いな、と言ってカーテンを閉めた獄寺がテーブルの前に戻っていく。
言った後で、山本は難しい顔で軽く下唇を噛んだ。あと一歩のところで出てこなかった、本当に言いたかった言葉を喉の奥に押し込むと、臆病風に吹かれた情けなさに自ずと溜息が出た。
表情の固い山本を見て獄寺は眉を顰めた。
「どうした」
「あ、いや、なんでも」
「…」
『止まなかったら、泊まっていけば?』
そんなこと、以前なら普通に言えたのに。
next