後ろ手にそっと引き戸を閉めれば二人きりの空間が出来上がる。自室に広がる浴後の香りが殊更山本の鼓動を高鳴らせた。石鹸やシャンプーも同じものを使っただろうに、獄寺の肌や髪を通せばとても魅惑的な匂いがするのは気のせいだろうか。ほのかに湿った銀髪に、色艶の良い肌。少し大きなTシャツを纏った細い身体を見れば、後ろからぎゅうっと抱きしめたくて堪らなくなる。
 山本は目の前の少年から目を逸らした。今宵は襲い来る衝動の波にひたすら耐えなければならない持久戦だ。敗れたなら今よりもずっと耐え難い未来が待っているのだから、決して敗れるわけにはいかない。
 獄寺がブランケットを置いて再びベッドに腰を掛ける。山本は布団を敷くのに端へ除けられたテーブルの前へ、獄寺と少し距離を取りながら向かい合うように腰を下ろした。
「さっき何読んでたんだ?」
 先程一瞬見た時には何かを読んでいたはずだが肝心の本が見当たらない。ああ、と相槌を打って獄寺が本を探してベッドを振り返る。置いたブランケットの下から出てきた本を見て、どうりで見当たらないはずだと合点した。 
「クソつまんねぇ野球雑誌。布団敷いてたらこの下に本あんのが見えたからよ……つーかおまえ、ベッドの下に隠しといてコレはねえだろ」
 バサ、と布団の上に先月号の愛読書が放られる。トレーニング法から指導法の意外なコツなどが載っていて山本には非常に面白いのだが、野球をしない獄寺にすれば当然ながら面白くなかったようだ。ベッド下にあったという証言に山本は首を傾げた。そんなところに置いた記憶は全くないから、何かの拍子にベッド下に入り込んでしまったのだろう。
 ベッドの下に隠す、ときて連想するものはひとつだ。「エロ本かと思った?」と訊けば案の定「それが相場だろ?」と返ってくる。
 テレビもなければパソコンもゲームもない、とくればあと気になるのはソレぐらいか。期待外れだと言わんばかりの声色に笑って、ふと思いついた山本は部活のカバンを引っ張りだした。
「エロ本が見たいんならあるぜ、今日ちょうど先輩が貸してくれてさ」
「…エロ本を?」
 こんなところで役立つとは意外だな、と思いつつ山本はカバンを開けた。有らぬ思いと格闘する今、それは危険な代物なために取り出すのに少々躊躇ったが、なるべく見ないようにすればたぶん大丈夫だろうと踏んで雑誌を掴んだ。タイプの女子がいないだけか、獄寺は学校でも特に女子に興味を示すようなことがない。だから、どんな反応をするのか物凄く気になった。
「そうそう、部でちょくちょく回ってんだよな…ホラ」
 好奇心旺盛な思春期の少年は皆一様に性に興味を持つ。野球部だけじゃない、エロ本の回し読みなどどこの部でも密かにやっている。訝しげに眉を寄せる獄寺へ借りてきた雑誌を放ると、野球雑誌の上へ淫猥な雑誌が重なった。獄寺が成人雑誌に手を伸ばす。
「おまえ…そんな卑猥な部だったのか」
「先輩は『健全な証拠だから胸を張れ』って」
「一理あるけど胸を張るとこじゃねえな」
 苦笑した獄寺は雑誌を手に取ってベッドに座りなおした。そしてページを捲る前にチラと山本に目を遣ると、示すように軽く雑誌を掲げた。
「オレは退屈凌ぎに見るだけで、別に見たくて見るわけじゃねぇからな!」
 何の言い訳か、少し赤い顔で一言添えだした獄寺が可愛くて山本は思わず笑う。進んで見ようとするあたりやはりノーマル思考なんだなと感慨深く思って、笑った後に軽い溜息が出た。自分とて獄寺を好きになる前は、ごく普通に女子に興味を持っていたのだから気持ちはわかるけれども。
「興味あるんならどっちでも一緒じゃねえ?いーじゃん、獄寺も胸張れば」
「そこまでアホになる気はねえ」
 男友達らしい言葉の応酬に眉を下げて笑む。これでいいんだと納得してのことだから余計に切ない。
 自分は違うとあくまで一線を引いて獄寺はページを捲り始めた。じっくり見る気はないようで、捲るペースはかなり速い。
「…部屋でエロ本読んでんの、親父さんにバレたことはあんのか?」
 突然の質問に目を丸くして、山本は首を軽く左右に振った。
「ない。知らねぇと思う。俺もたまに見せてもらうくらいで自分じゃ買わねえから、部屋に隠したこととかもねえし」
 本を買うなら今はエロ本よりも、野球雑誌や野球漫画に手が伸びる。性の欲求より野球への情熱が勝っていればこそ、まだ自ら進んでその手の本を買いに行ったことはない。買わずとも部である程度見られるからというのもあるかもしれない。心の中の不等号がひっくり返ったなら買うようになるんだろうなとは考えていたが、手にするどころか避けることになるとはよもや思いもしなかった。
「…じゃあ、バラされたら困るよな?」
 しばらくして、ボソッと吐き出された脅迫めいた言葉にドキリとする。小首を傾げて山本を見る獄寺は真顔だ。
「え?あの…、ごくでら?」
 なんでそんなこというの?と困り顔になった山本に獄寺は噴出して笑った。
「冗談だっつの!なに焦ってんだよ」
 山本に対してだけか軽く苛めて遊ぶのが獄寺のツボらしく、厄介なそれに山本はムッと口を引き垂れた。揶揄が成功して可笑しそうに笑う獄寺はすこぶる可愛いがやはり悔しい。
「…バレてもオヤジなら大丈夫だって」
「だろうな」
 未成年には悪影響とされても男親なら理解も得られよう。剛なら『程々にしとけよ』くらいで済みそうだ。母親が健在な家はエロ本一冊隠すのにもそれはもう大変だと聞く。『女の直感は怖ろしい』と部室で経験者達がよく語っている。
(それにしても、あんま表情変わんねぇっつーか…)
「それ、先輩の秘蔵本らしいんだけどさ、どう?」
 パッとしない内容なのか、先程からパラパラとページを捲るペースは変わらない。残り3分の1ともなれば広告ページばかりになるから、程なく見終えてしまうだろう。
「どうって、何が」
(そんなに興味ねえって感じもすっけど…どうなんだろ、わかんねえな)
「好みのタイプ、とか」
「…いねぇな。セックスアピール強い女って好きじゃねえし」
(なんか凄い言葉出た!)
 あまりにサラッと言われてどぎまぎする。セックスという単語一つ口にするのも躊躇われる山本からすれば、ストレートな表現は実に欧米育ちらしいように思う。自己主張をはっきりとする彼の性格もまた、それを髣髴とさせる気がした。
 淡々とした表情でエロ本を見ていられるのも向こう育ちだから?いやいや育ちは関係ねえよな、と考えて山本はピンと閃いた。
「獄寺ってさ…もしかしてエロ本見慣れてる?」
 訝しげに問われて山本の疑問を察したのだろう、一通り見終えた成人雑誌を閉じた獄寺はきまりが悪そうに襟足を掻いて頬を赤くした。
「別に、見慣れてるってわけじゃねーけど……洋物ならちょっとは」
「洋物!?」
「悪影響なオッサンが近くにいたんだよ…『女体の神秘を教えてやる』っつって、6歳のガキにグロいとこまで見せやがってよ」
 6歳でエロ本デビューを果たしている獄寺に山本は戦慄を覚えた。欧米の子供達はそのテに関しては日本よりもずっとませているらしいとは単なる俗説だと思っていたが、あれは本当だったのか。6歳で性の世界に足を踏み入れて何年が経った…?キスは?その先は?獄寺はきれいで可愛いけれど、格好良くもあるのだ。
 グルグルと頭が回る。山本は俯いてグッと拳を握った。ひょっとすると、最後まで経験済みなんてことは…
「じゃあ、じゃあ…」
 膝の上で握った拳がふるふると震える。これで肯定の返事がされたら目も当てられないが、聞かずにはいられない。山本は顔を振り上げた。
「じゃあ本物を拝んだことはッ」
 バァンッ!
 山本の顔面に成人雑誌が飛んだ。
「ねえよ、アホ」
(よ…、よかった)
 返ってきた雑誌を顔面から剥がして、山本はホッと胸を撫で下ろした。友達でいなければという意志とは裏腹に、心底安心している己が心にほとほと呆れてしまう。
「…つーか山本、わりぃけどさ」
 獄寺が不快感を露に、Tシャツの胸元を軽く引っ張った。
「オレもタンクトップ貸してくれねえ?やっぱこれ暑くてよ」
「あ、ああ、いいけど…つーか暑いんなら冷房もっときつくすっけど?」
「いや、それより着替えてぇな」
 部屋を冷やすより肌に触れる面積を減らしたいのだろう、若干ゆったりとしたシャツはとても目に優しいのだが着替えたいというならば仕方ない。今より露出が高くなってしまうことに山本は小さく頬を掻いた。
「わかった、ちょっと待ってな」
 立ち上がってタンスへと向かう。わざわざ時間を掛けて選んだものの快適性に欠けてお気に召さなかったとは。体格差があるゆえ山本の服は獄寺には少し大きい。袖も肘まできていたから余計に暑かったのかもしれない。
「だいたい、おまえは暑いのわかっててそれ着てんだろーが、なんでオレはTシャツなんだよ」
「な、なんとなく」
 目のやり場に困るから、なんて言えるはずもなくムニャムニャと言葉を濁す。引き出しを開けてなるべく小さめのものをと探していると、横から覗き込んだ獄寺がひょいと黒のタンクトップを掴んで広げた。
「これ、借りるぜ」
「あ」
 さして小さくもないそれは、着れば非常に隙間が気になってしまいそうだ。かといって何と止めてよいものやらわからない。あぐねていると、手を交差させて裾を掴んだ獄寺が、一気にTシャツを捲くって脱ぎ始めてしまった。
「!!!」
 いきなりの生着替えに度肝を抜かれて山本の目が釘付けになる。シャツから頭を抜いた瞬間、銀髪からふわりと良い香りが広がってクラリとした。追い討ちとばかりに脱いだTシャツが放り渡される。受け取った手にほのかな温もりが伝わって山本は自分でもわかるほどに血圧が上昇した。
(脱ぎたて!!)
 どくんどくん、と心臓が煩くて堪らない。目の前には、浴室では半分も見れなかった上半身が露になっている。胸のきれいな桜色に目を奪われ、腰の細さに息を呑んだ。筋肉のつき方も程よく、血色の良い肌は目にも滑らかで…本当に綺麗だと、瞬きも忘れて魅了された。

 リミットゲージの針が振り切る勢いで増していく。しかし無防備な艶姿に理性が切れる一歩寸前、安全装置とばかりに違う箇所が切れた。
 鼻を押さえた山本はテーブルの上のティッシュに手を伸ばした。

「どうした?」
「っ、…鼻血」
「鼻血!?」
(覚悟はしてたけど…すげぇ格好わりぃ)
 二枚程で押さえてみたが全然足りそうにない。それを見取って、タンクトップを着終えた獄寺が慌ててティッシュの箱を掴んだ。何枚か引き抜いて山本の鼻へと押し付ける。
「お、オレがさっき本ぶつけたせいかよ?」
「わかんね、けど…」
 どうかそういうことにしておいて欲しいと、有り難い勘違いに山本は心の中で感謝した。後ろめたさに顔が見れず、鼻を押さえたまま少し天井を仰ぐと喉が詰まって少し咽てしまう。
「バカ、上向くな!血が喉に流れんだろ!とりあえず座れ」
 二の腕を掴む手の感触に心臓が一層高鳴る。強く引っ張る手に促されて座れば、白い肌に浮かぶ鎖骨のラインを目前にしてまた目を逸らしたくなった。一向に鼻血は止まらず、目のやり場にも困り果てる。となると自然と頭は上を向こうとするわけで。
「だから上向くなって!」
 両手でガシッと頭を固定され、頻々と与えられる刺激に山本は耳まで赤くなった。疚しい気持ちを抱えているのに接触は勘弁して欲しい。堪えきれずに咄嗟に片方の手で頭に触れる手を掴むと、グッと強く押し返した。
「だ、大丈夫だから!」
「…」
 獄寺も目を丸くするほど、思いのほか大きな声が出たことに自分でも驚く。山本の頭からそっと手を放した獄寺は少し眉を寄せた。澱んでしまった場の空気は笑って誤魔化すしかなくて、山本は弱った笑みを浮かべた。
「俺、部で教えてもらった裏技があってさ!それでまじで止まるから、さっきも止めたし」
 誤魔化しが効いて上手く気が逸れたのか、獄寺の眉間の皺が緩む。
「さっきも出たのかよ…」
「ふ、風呂でのぼせて」
「ふーん…で、どうやって止めたって?」
「えっと…濡れたティッシュ鼻に詰めて、反対側の鼻押さえて…それから、そのまま鼻からゆっくり息吸い込んで」
 たどたどしい山本の説明に獄寺は呆れた。
「おまえ、それで息吸ったら鼻血も飲むことになんだろーが!んなアホなやり方誰に聞いたんだ!」
「せ、先輩に…漫画に載ってたって」
 さすが、顔立ちが良いだけに凄むと迫力がある。顔を顰めた叱り口調に山本がおずおず答えると、獄寺からまた怒声が飛んだ。
「てめぇは先輩とやらにロクなこと教わってねぇな!」
(なんか、すげぇ怒られてんだけど)
 新たな一面にどきどきしてしまう。獄寺の手が山本の鼻の付け根をぎゅっと押さえた。
「こうやって押さえて、下向いてじっとしてれば10分くらいで止まんだよ。血は外に出した方がいいぜ、飲み込むと気分が悪くなる」
 物言いはぶっきらぼうなのに、不思議と温かみを感じさせる声に胸が締め付けられる。
 そう、その根源に思いやりがあると解るからこそ。
「あと、恥ずいのはわかっけどちょっと落ち着けよ。おまえ、顔真っ赤っかじゃねーか」
 獄寺はテーブルにあった団扇を掴むと、山本に向かってバタバタと扇いだ。涼しい風が山本の熱った頬を撫ぜていく。心地よい風を感じながら、山本は見えぬ唇の内側を戒めるように噛んだ。

 優しくされると、嬉しいけれど無性に辛い。
 疚しさに、押し潰されてしまいそうで。
 同性の男にそんな目で見られているなんて、当の獄寺は想像も付かないだろう。

「…ごめん」
 思い余って零すと風がピタリと止んだ。次の瞬間、パァン!と団扇で頭を叩かれる。軽いので痛くはなかったが、酷く驚いて山本は顔を上げた。
「そういうの、らしくねえんだよ」
 何時になく曇った表情。獄寺の厳粛な声色を聞いて山本は胸が冷えた。気が散漫して鼻を押さえる手が緩んだのを見て、獄寺の指が上から押さえ直す。
「ちゃんと押さえてろって」
「…」
 しばらくして指を離した獄寺は、団扇を山本の膝に渡すと立ち上がってベッドへと向かった。
「今日オレ、ベッド使うからな。おまえ布団で寝ろよ」
「へ?」
「オレ、ベッドじゃねぇと落ち着かねぇんだよ」
 下でも寝れんだろ?と、当然のように言ってベッドにあった枕を下の布団へと放る獄寺は、もういつも通りの顔になっていて。
 疑問は残っているものの、山本は胸を撫で下ろして「ああ」と頷いた。

 枕と上掛けを置き替えている獄寺の後姿を目に、鼻を押さえながら悶々と考える。
(何かまずい事、したっけ)
 ごめんと謝って、らしくないと言われた。直後の重い表情を思い出せば、謝るという行動そのものを単純に指摘したのではないと解る。そしておそらく…らしくないと、そう思ったのは一度や二度のことではないのだ。
(俺、いつも通りに…してたよな)
 獄寺の目に、自分がどのように映っているのかなどわかるはずもない。何が獄寺にそう思わせたのかもわからなければ、どうすればらしく映ったのかもわからない。
 いつもとは違う何かを感じ取って、不快に思っている。想いを気取られまいとして、普段通りにしているつもりでも、きっと獄寺の目には違和感があるのだろう。
 気兼ねなく傍で笑って欲しいからこそ、邪念を振り払って現状を保とうと躍起になっている。
 そのせいで獄寺にあんな顔をさせてしまったのなら本末転倒だ。

(俺らしいって、なんだろう)
 考えてもわからなくて、途方に暮れる。

 このまま友達の皮を被って、想いを秘めたまま、気持ちに折り合いのつく地点まで何とか渡っていこうだなんて―――

 自分は、無理な綱渡りをしているのだろうか。



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