鎖骨に当たって跳ね返る雫に、獄寺は少し目を細めた。気持ちよく降り注ぐ温かい雨。
 湯を張るのが面倒で風呂はいつもシャワーで済ませていた。髪や身体を洗うだけで温まるということをしない。それはあまり身体に良くないことだと聞いたことがあるけれど、気にするような性格でもなかった。
 シャワーの下でゆっくりと反転して身体中に纏わりついた泡を流していく。背を向けて、温めるように襟足に湯を当てると獄寺は深く息を吐いた。
 山本のことでずっと、悶々と頭を悩ませている。それは告白をされた時から否応なしに始まり、山本が不在になってからは特に酷かった。
(くそ、なんでオレがこんな…)
 冷静な思考を以って出した答えと、山本を前にした時に現れる答えとの齟齬に一日中頭を抱え、気を紛らわそうと他のことをしてても頭の片隅でぼうっと考えてしまう。考えすぎて頭がおかしくなりそうだ。
 どちらかが間違っているということはない。きっとどちらも、自分の持つ本当の思いなのだろう。

 片や、山本とはこのままでいる方がいいと…男同士なんて、リスキーでデメリットの多い関係など選べるはずがないと思い…
 もう片や、切望されることや、強く抱き締められて伝わる体温、匂い、感触、それらを決して悪くないと、また傍にいることを心地よいと感じて乞うている自分がいる。

 理性と感情は必ずしも一致しない。一致しないことのほうが多いという。感情は思うままに動き、理性はそんな勝手な感情を認めようとしない。自ずと、理性と感情の果てしない相克が起こる。どちらも相容れないから、答えは纏まることなく回帰を繰り返していく。終わりは一向に見えない。
 けれど求められている以上、いつかは決断をしなければならなくて。
(好きだっつってくれんのは…嬉しいとは、思うけどよ)
 真摯な眼、本気の声、熱い抱擁が今にも甦るような感覚がして肌がわずかに粟立つ。今は抱き締められる程度なら抵抗も感じない。山本はそれほどに心を許せる存在になった。
(けど、あいつの告白はキレイ事だけじゃねえんだろ)
 そうだ、と念を押すように頷いて、湯の伝う腕や手、自分の身体を見て、これまで考えないようにしてきた事と改めて向き合う。
 友達として見れないということは、イコール、性的な対象として見られているということだ。躊躇いもなく、当たり前のようにキスを仕掛け…いや、本当にしてきたくらいなのだ。その先も望んでいると考えて然るべきだろう。
 その場合、体格差や力の差を考えてもおそらく自分は組み敷かれるのに違いないのだ。貞操の危機を想像して思わず青ざめてしまう。かといってその逆などもっと有り得ない。
(無理だ、絶対考えられねぇ)
 言えば、山本は諦めるだろうか。諦めたらどうなる?それでも今まで通りでいてくれるだろうか?
 そう考えて、すぐさま首を振る。それは無理なのだ。フられても友達としていられるようならとっくに話は纏まっている。それができないから山本は改めて口説くと言ってきたのだ。

 そして自分もまた、山本を失いたくなくて。
 互いが互いを、違う想いで諦められないでいる。

(つーかもう、何言っても無理なんだよな…)
 恋人などより、ずっと自然で魅力ある形が他にある。
 どんなに自分がそれを熱く望もうと、想いを明かした山本に『親友』という選択肢はもうない。もし選べたとしても、それが機能しないだろうことは薄々と解っていた。
 たとえ山本がこちらの意を汲んで『じゃあ友達でいよう』と言ったとしても、きっと自分はそれを信じられないだろう。無理をしているんじゃないかと、山本が見せるどんな笑顔をも疑って、散々気遣った挙句、堪えきれずに距離を置いて余所余所しくなっていく…そんな気がする。
 もう友達として見れないのは自分も同じ事なのだ。
 かつては確かにあった、友達という、今は選外となってしまった理想の選択肢を捨てきれないがゆえに、山本の望みを拒むことしか考えられないけれど。

 選択肢は、初めから2つしかない。
 山本を受け入れるか、失うか。二つに一つだ。

(あいつを好きなのは間違いねえけど)
 けれど、好きは好きでもそれが恋でなければ山本にとっても意味が無い。だから受け入れられない、受け入れるべきではない ――― でも、フって失いたくもない。
 山本の為を無視した、自分に都合の良いどうしようもない気持ちを心にぶちまけた後、獄寺はふと考えた。

(オレは、なんで)
 こんなにも山本を…一日中頭を抱えてまで、もう友達にもなれない厄介な人間を失えないと思うんだろう?

 もはや友とは思い難くなってしまった相手を、それでも失いたくないと思う。
 それは単に心の隙間を満たしている存在を失うまいとする執着か、それとも…―――

 どく、どく、と鼓動が熱を持ち始めた気がして獄寺は胸を押さえた。思考から逃げるように目を瞑って、ゆるく頭を振る。
(……ダメだ、今はやっぱり答えが出ねえ)

 熱くなった顔を冷やしたくて水の蛇口を捻ると、勢いを増した分シャワーの温度が少し下がった。
 水に近いシャワーを頭から浴びて、洗い終えた銀髪を後ろに撫で付ける。濡れた顔を手で軽く拭い、獄寺はシャワーを止めた。

 長い溜め息を零しながら浴室を出て、バスタオルを掴んだ。タオルをぎゅっと押し付けて顔を拭うと、続けて髪にタオルを絡ませて大まかに水気を取っていく。
「…?」
 不意に何かに気づいて耳を澄ました。髪を拭く手がピタリと止まって、自然と鼓動が早くなる。
 
 …♪♪〜♪〜♪♪♪〜

「!」
 携帯の鳴る音が微かに聞こえてくる。鳴り続けているからメールではない、電話だ。身体の水滴が床に落ちぬようにと腰にバスタオルを巻いて、獄寺は急いで脱衣所を出た。やはり聞き間違いではなく、着信を告げるメロディが頻りに呼んでいる。不思議と、電話の相手はただ一人しか考えられなかった。
 山本が日本を発って4日目の夜だった。部屋に向かうすがらリビングの時計を見ると23時3分。すると向こうは今、昼の3時くらいか。こちらのことを考えるなら、もう2、3時間早くかけてきても良さそうなものだ。
(タイミング悪すぎんだよ、こんな中途半端な時間にかけてきやがって…!)
 そんな文句の一つ言ってやりたくてグッと拳を握る。深夜、いかにも落胆した溜め息など零したくないと、喉に上がってくる重い息を何度飲み込んできたか。
(やっとかけてきやがった)
 確信を胸に携帯を放り置いたベッドへと向かい、縁に膝をついて獄寺は鳴り響く携帯を掴んだ。

 カチッと携帯を開いた瞬間、呼吸が止まった。着信画面を見る緑の双眸が少しだけ暗く沈む。

 気持ちを切り替えるようにひとつ深呼吸をし、獄寺は通話ボタンを押した。
「はい」
『あ、獄寺君ッ!?』
「…10代目?どうかされたんですか?」
 やけに慌てた声に少し驚く。思えば綱吉が掛けてくるにしては珍しい時間帯だ。
『あのさ、オレ今日そっちに消しゴム忘れてないかな!?サカナの形した青い消しゴムなんだけど』
 獄寺は目を丸くした。
「消しゴムっスか?ちょっと待ってくださいね」
 慌てようと内容のギャップに首を傾げながら、宿題をやったリビングのテーブルへと向かう。ぐるりとその周りを見て、台の下を覗き込んだ獄寺はテーブルの足元に青い小さな物体が転がっているのを見つけた。
「あー、ありました!」
『あった!?あーーーーー、良かったぁあーーー!!』
 心底安堵した声が受話口から聞こえてきて獄寺も釣られてホッとする。こんな時間に慌てて電話をしてくるくらいなのだ、相当大事なものらしい。落ちているそれを摘み上げながら獄寺は訊ねた。
「すぐご入用ですか?でしたら今からそちらに」
『ううん、あったならいいんだ!明日そっちに取りに行くよ』
 拾ったそれをまじまじと見つめる。サカナの消しゴムは尖ったり括れたりしていて、消しゴムとしては少し使いにくそうだ。機能的な魅力があるのかと思いきや使った形跡はどこにもない。
「あぁ、オレがそちらに届けに行きますよ。しかしこれ…そんなにすごい消しゴムなんスか?」
 持っていると良いことでもあるとか?訝しげに、彼のトレードマークを象った青い消しゴムを色んな角度から眺めてみる。
『あ、うん…すごい、っていうか…貰ったやつなんだ』
 それを聞いてピンとくる。綱吉の慌てようにも合点がいった。
「笹川っスか?」
『え、っと、その…あの…う、うん』
 たっぷりと吃りながら肯定した綱吉に頬を緩ませ、獄寺は小さな消しゴムを丁重にテーブルの上に置いた。
「わかりました、では明日お届けに参りますんで」
『い、いいよ獄寺君、オレがそっちに取りに行くから』
「いえ、10代目にご足労を煩わせるわけにはいきません!オレもどのみち山本の家に行くのにそっちの方へ向かうんで」
『…でも、忘れたのはオレなんだけど…い、いいのかな…ありがとう。あの、こんな時間に本当にごめん』
「とんでもない、見つかって良かったっス!」
『うん、ほんとに!マジで失くしてたら京子ちゃんに合わせる顔がなかったよー』
 そう言って、はは、と綱吉が弱った声で笑う。獄寺からすれば消しゴム一つで何もそこまで、と思うが言った本人は至って本気だ。それほど大切に思っているのだ、この消しゴムをくれた相手のことを。
 綱吉は、笹川京子に恋をしている。
 傍から見れば少し歯痒い、憧れ交じりの清らかな恋情はクラスでも知る者は多い。
「あの、10代目…」
『?』
 山本とは大きく違うそれを不思議に思う。相手に何を望むでもない。いまだ憧れの色が強すぎるのか、綱吉は彼女を手に入れようという気概にも乏しいように見える。個々の性格の違いゆえか、しかしそれでも、それも同じ恋だと自覚しているのだ。
「突然…不躾なことをお聞きして申し訳ないのですが」
 それには相手の性別や、何を望む望まないなどは一切関係ない、指標となるものがあるはずで。
 腰にタオルを巻いただけの、まだ濡れた身体のままでソファへと腰を下ろす。
「笹川京子の、どこが好きなんですか?」
『え"!?』
 言った後で唇に拳を当て、獄寺は難しい顔で訂正した。
「いや、違うな…どこが好きかっていうより、笹川のことを好きだと思うに至った理由はなんですか?」
『え、な…なに、どうしたの急に』
 あまりにも突飛な質問。綱吉が戸惑うのも無理はなかった。
 聞いたところで万人に共通するものではないかもしれない。彼の気持ちを目安に自分の気持ちを量ろうなんて間違っているのかもしれないけれど、自分ひとりだけではただ悩みは巡るだけでどうしてもそこから脱することができない。藁にも縋りたい思いなのだ。
 引かれるのを覚悟で、今の状況と思いを吐露してストレートに聞いてみれば判断を下してくれるだろうか。そんな甘い考えも過ぎったが、それはダメだと強く押し止めた。判断を委ねたところで、それを受け入れられるか否かはどのみち自分自身。意味がない上、相手にも迷惑なだけだ。ただでさえ山本とのことで困らせてきたのだ、間にいる綱吉を巻き込むことはやはりできない。
「その…なんとなくお訊きしたくて……自分は、そういうことに少し疎いようなので…」
 なんと言えばいいのか、言葉に詰まって「すみません」と零すと、受話口の向こうの綱吉は驚きを隠せない声色で『う、ううん』と返した。慕ってくれる友人の、らしからぬ真剣な声を聞いてしまえば綱吉も羞恥に堪えるしかない。
『思うに至った理由、だっけ』
「…はい」
 ん〜、と少しのあいだ気恥ずかしそうに小さく唸り、やがて綱吉はたどたどしく答えた。

『一緒にいると、すごいどきどきする、っていうのもだけど…自分でも気づいたら…探してたり、目で追ってたり…しょっちゅう、考えたりするから、かな…』

「…」
『ごめん、オレ単純だからあんまり参考になんないかも』
「いえ、そんなことないです…ありがとうございます。変なことをお聞きしてすみませんでした」
 役目を終えたらしいことに綱吉はホッと安堵の息を吐いた。
『獄寺君はさ、山本とは』
 突如飛び出た名前に、どっくん、と獄寺の心臓が跳ね上がる。
『そういう話しないの?』
「し、しませんね…野球バカの言うことなんてアテになりませんから」
 受話口から綱吉の苦笑いが聞こえた。
『オレもしたことないんだよなぁ…山本って今まで何人にも告白されてるらしいけど全部断ってるって言うし、好みが全く読めないよね』
 確かに、と思う。告白をした女子は学年を問わずその系統も様々。試しに付き合ってみるということもなく、端から断り通しているというのだから好みなど読めるはずもない。

 そしてそんな山本が自ら選んだ相手は…―――
(よりによってオレ?)

 ふっと嘲笑して獄寺は睫毛を伏せた。
「…そっスね」
『あはは、そういう獄寺君も読めないけどさ』
 一瞬、野球少年の爽やかな笑顔が脳裏に浮かんできたのに自分でも驚く。かぁっと顔を赤くした獄寺は誤魔化すように大きく叫んでいた。

「お、オレは10代目一筋ですからッ!!!」

『……』
「…あれ、10代目?もしもーし??」


 自分でも気づいたら探していたり、目で追っていたり、しょっちゅう考えていたりする。綱吉はそれが恋だと言った。なるほど、と反芻する。シンプルでわかりやすく、これ以上ない恋の指標だ。
 獄寺は電話を切った後ソファにどっと身体を預け、額に拳を乗せてゴン、ゴン、と何度も振り下ろして自分を小突いた。
(…あいつも、言ってたことじゃねえか)

―――…一日ずっと、獄寺のことばっか考えて止まんねえの。

 『さすがは10代目』
 今の獄寺には、そんな感服の声を漏らす余裕も残ってはいなかった。現状と照らし合わせればものの見事に一致してしまったからだ。
 山本の家の柔らかな匂いを感じた時、料理が上手く出来た時、野球関連のものを目にした時、携帯に触れる時、夜ベッドに入って眠りにつく時、…それ以外の時でさえ。
 最近自分は、気づけば山本のことばかり考えている。

(オレに…それを認めろっていうのか?)

 だが、好きだと言われたならその相手を気になって当然のこと。自分に関心を持っている相手なのだ、少なからず意識してしまうものだろう。
(これは、そういうことじゃないのか?)
 考えてまた頭を悩ます。確かにそういった心理も働いているかもしれない。でも自分の場合、それだけにしては少し度を越えている気もした。
 誰にも話せぬ思考の中、否定と肯定の渦の中で散々思い悩み。鳴らぬ携帯に溜め息を殺し、連絡がないか幾度も確認して。携帯が鳴っていると気づけばバスタオル一枚で駆け出した。
(冗談だろ…)

 ほんの3ヶ月程前だ、山本のことを顔を見るのもイヤだったのは。自分にはないものに溢れていて、そうとは気づかずにただ気に入らなかった。嫌いで嫌いでしかたなかった。
 …そんな相手に、今は恋をしている?

 何もかもが滑稽で、信じたくなかった。



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