約一ヶ月。決して短くはないそれをあっという間に感じたのはそれだけ濃密な時間を過ごしたからだろうか。

『長いこと武の勉強見てくれてありがとうなぁ、獄寺君』
 夏休みも最終日となったその夜、獄寺の料理修行はついに終わりの時を迎えた。
『いえ…オレこそ本当に世話になりました。色々とご教授頂き、ありがとうございました』
 最後に深々と頭を下げて自分なりにけじめもつけた。とはいえ、未練を感じさせたくないと自分から感情を切り捨てた部分があったせいで、どこか形式的な態度だったように思う。『明日から本当にもう来ねえのかい?』と言った剛の寂しげな表情に後ろ髪を引かれる思いがしても、山本とのことがあるだけにこれ以上はとてもいられなかった。
『はい、基本的なことは大方教わったので…あとは一人で精進します』
 本当は、基本ですら全てを教われたわけではなくて。まだまだ教えてもらいたいこともあったけれど。
『そうか…寂しくなるなぁ』
 眉を下げて感慨深く放たれた一言が、獄寺の胸に強く共鳴した。
『無理に引き止めるわけにもいかねぇからなぁ。こないだも言ったが、何かわからねえことが出てきたら遠慮なく来てくれな。それと獄寺君にこれ、おいちゃんからの気持ちなんだが良かったら使ってくれ』
『…なんスか?』
 大きく平たい木製の化粧箱を手渡され、開けるように促される。匠の文字が刻まれた箱は見るからに質の良さを感じさせるようだ。
 開けてみると、ずっしりと重みを感じる箱の中身は砥石も付いた包丁のセットだった。
『ほ、包丁ー!?』
『ああ、刃物ってのは運命を切り開くっつってな。悪いもんじゃねえから、気にしねえで受け取ってくんな』
(運命を切り開く…)
 思いがけない贈り物に胸を熱くして声を失った獄寺の背を、剛はいつもそうして褒めてきたように最後にポンと叩いて見せた。

『この一ヶ月、本当によく頑張ったもんだ。家でもしっかり頑張るんだぜ』
『あ……ありがとう、ございます』

 最後の最後で、切り捨てたはずの感情が戻ってしまったのは言うまでもない。


 ――― そして、それから一週間が経とうとしていた。


 授業を重ねるにつれて学校中に蔓延していた休みぼけも次第に薄れていく。日が経つほどに、過ぎ去った自由な日々を振り返る者も少なくなっていった。
 以前となんら変わりない日常だった。朝は綱吉の家へ向かってそのまま一緒に登校、その後、教室で綱吉と話しているところへ朝練を終えた山本が入ってくる。授業があって、休憩時間があって、昼休みになれば、他愛ない話をしながら3人で昼食を取った。授業が終われば山本は部活、獄寺は綱吉の補習などの予定に合わせながら、基本的に学校が終わればまっすぐに自宅へと帰る。
 いつもと変わりない中で、本人達だけがその変化をわかっていた。集団の中では二人して、告白のことなどまるでなかったかのような顔をしているだけなのだと。頻繁に視線がかち合ってしまうそれが、決して偶然ではないことも。
 そうして、あからさまに山本から目を逸らしてしまうたびに獄寺の中で気まずさが育った。獄寺はただ、己の無意識の行動に慄いていた。
 姿が見えないと勝手に目が山本を探している。それだけで解ってしまう綱吉も凄いが、訊いてもいないのに「山本?さっきトイレに行ったよ」などと教えられてひどく焦ることが多々あった。
 一度気になってしまうと変に止まらない。どつぼに嵌っていくようだった。
 夏休み、二人でいた時には判らなかった。集団の中に在る山本を見て初めて、獄寺はそのことに気づいたのだ。
 黒茶色の瞳が、人懐こい笑顔が、見慣れたその姿が、異様なほどにこの目を惹きつけるのを。

 悶々としながら学校から帰宅し、夕食時になって冷蔵庫を開けてから、中にあった材料は昨夜でほぼ使い切ったのだと思い出して獄寺は溜め息を吐いた。中途半端に切り残したにんじんだけではどうしようもない。獄寺はやかんを掴むと、それに水を入れて火にかけた。
 材料が無ければ買い出しに行けばいい話なのだが全く行く気がしなかった。日が経つほどに作る気が失せていく。憂鬱な気分で使い始めるのは嫌で、貰った包丁も未だ箱に入った状態でキッチンの隅に置かれたままだ。獄寺はキッチン上部の棚を開け、以前に買い溜めていたカップ麺を一つ取り出すとビニールを剥がし始めた。
 ここ数日、朝夕と何食か続けて作ってきた末…自分のためだけに包丁を握ることに獄寺は早くも倦怠感を抱くようになっていた。
 獄寺から気力を削いだ要因は多々あった。
 他に食す相手がいないだけに遣り甲斐を感じないこと。自分のためだけでは、どうも動く理由に欠けてならない。
 それでも続けなければこれまでやってきた意味が無くなってしまうと、そう己に言い聞かせて作っても、一人でする食事はひどく味気なく感じて堪らなかった。
 一人で飯を食べることなど以前は何とも思わなかったのに、今は侘しさを感じる。美味いと、そう言って嬉しそうに笑う山本の顔を無意識に思い出してしまうからかもしれない。そして後に残るのは面倒な洗い物と、軽い虚無感―――
 自分の手で何かを作ることや、それを人に与えること。その楽しさや喜びを知ったがために、いらぬ寂しさまで覚える羽目になるとは考えもしなかった。
 これまで知りえなかった幾つもの感情。それらを教えたのは紛れもなく山本親子だ。剛の影響ももちろん大きいが、夕食から帰るまでの数時間を共にしてきた山本の影響は言うまでもなく、それ以上に大きい。
 それが自分にとって果たして本当に良かった事なのか…現状を思うと何とも言い難いものがあった。


『ヤだなぁ、明日から獄寺のメシが食えなくなんの…』
 二人乗りの帰り道、いつもよりもペダルをゆっくりと漕きながら山本がぽつりと零した。街灯によって等間隔に照らされた夜道はとても静かで、独り言のような呟きであっても耳によく届いた。
 終わりを惜しむその言葉を、嬉しくなかったと言えば嘘になる。
『…んなこと親父さんには言うなよ、明日からまた作ってもらうんだろうが』
『んー、それはわかってっけどさ…。なぁ、作りすぎた時とか呼んでくんねぇ?飛んでくし』
『断る』
『即答!?こう…ちょっとくらい、考えてくれたってさぁ……じゃあ、気が向いたらまたうちに作りに来てくんね?』
 気が向いたらまたうちに。都合を考えた着想に胸が少しグラつく。
 しかしそれがどんなに魅力的な誘いでも、意固地で厄介な性格が心揺れてないフリをさせた。
『断る。そもそも何でオレがおまえにメシ作んなきゃなんねえんだよ』
『…そう言われっと、その通りなんだけど…でも俺、獄寺の作るメシすげぇ好きだもん』
『なっ!?』
『メシだけじゃなくてさ!一緒に食う時だって、なんか…新婚、みたいで死ぬほど嬉しかったし…マジでこの夏休みすっげぇ幸せな思いしすぎて俺、明日っから軽くブルーっつうか』
 照れながら恥ずかしいことを言い出す山本に、言われた方も当然恥ずかしくなって一気に耳まで熱くなる。
『バ、バカじゃねえのおまえ!!何が新婚だ!』
『だ、だって獄寺、おかわりとか嬉しそうによそってくれてすげぇ可愛かっイテッ』
『うるせぇッ黙れ!!』
 ゴン!!と頭頂部をぶっても山本は全く懲りずに食い下がった。
『なぁ、俺がいたら後片付けもラクじゃねえ?獄寺、後片付け苦手だろ??』
『それでもてめえの手なんざいらねえよ!』


 火にかけたやかんがピィーと甲高く鳴いて獄寺はハッと意識を戻した。こんな僅かな一時でさえ考えるのは山本のことで、またかよ、と脱力する。
 火を止め、カップ麺に沸いた湯を注いでいく。何を食べても味気ないならメシなどこれで十分だろう。
 ここで戻ろうものならまた自ら歩み寄るのも同じこと。そう考え、そんな片意地に苦しくなって獄寺は深い溜め息を吐いた。

 ――― 俺、獄寺の作るメシすげぇ好きだもん

「…」
 本音を言うなら戻りたいのだ。けれど、自分の気持ちに素直になれない。
 山本へのただならぬ意識を自覚し始めてからは特に酷かった。普通に話すことは出来るし決して嫌なわけではないのに、山本のことを時々態と避けてしまうこともある。あれほど失うことを恐れていたはずなのに。
 思い余って、いっそ山本と付き合ってみれば楽になるんだろうかと…そんな考えが頭に過ぎって、獄寺は己の恐ろしい思考にスッと青ざめた。

(…やべぇ、だんだん危ねぇ発想になってきた…)

 袋小路から抜け出せずに、散々思い詰めてどのくらい経ったのか。自分の心を垣間見ても頑なにそれを認められないのは何故なんだろう。
 己の気持ちに目を覆ってでも、人並みにまともな自分でいたいのか。
 ただその先にある未来を信じられず、怖いだけなのか。

 また思考に耽ったせいで、表示の3分をとっくに過ぎてもカップ麺の蓋が開けられることはなかった。



*****



 5時限目の始業ベルが鳴っても獄寺が戻ってこない。つい昨日までは全ての授業をちゃんと受けていたのに今日になってまた突然サボり癖が出てきたのか、今日はこれで2度目の失踪だった。
 英語の授業が始まって3分後、山本はポケットに小さな箱を忍ばせて「すいません、すげえ気分が悪いんで保健室行ってきます」と如何にも具合の悪いそうに教師に告げて教室を抜け出した。もちろん褒められる事ではないのはわかっているが恋心の絡んだ衝動はそうそう抑えられるものではない。久しぶりに獄寺と二人きりになれるチャンスなのだ。
 超健康体はもちろん保健室には行かず、迷うことなく足早に屋上へと向かった。しかし清々しい青空の下、獄寺の姿はどこにもなくて首を傾げる。鞄はあったから帰ってはねえよな、と腕を組んでもう一つ、彼のいる可能性の高い場所へと向かう。
 廊下に戻って非常用の外階段のドアを静かに開けると、ふわりと煙草の匂いがしてきてどうやらビンゴだと口角を上げた。吹き抜けを覗いてみれば、微かなドアの音に気づいた獄寺が下から見上げているのが見えて二ッと笑う。山本はいそいそと獄寺の元へ降りていった。
「今日は屋上じゃねえのな?天気いいのに」
「…ストーカーかテメーは」
「そう言われっと耳が痛ぇな」
 否定できなくて苦笑いをする。彼を追って授業を抜け出し、見つけるまで探す気だったことを思えばまさにその通りだ。
「戻れよ…おまえまた授業についてけなくなるだろうが」
「ハハ、それがもうわかんなくってさ」
 時すでに遅し。額を抑えた獄寺の隣へ笑って腰を下ろす。夏休み以来、二人きりで話すのはちょっと久しぶりだ。
「英語ってムズいよなー…やってっとさ、だんだんどこが解んねえのかもわかんなくなってくんだよな」
「あんな基礎段階でムズいとかいってんじゃねえよアホ」
 あぁいつもの獄寺だ、とホッとして笑う。時折避けるような素振りがあったり、表情を暗くしていることもあったから少し心配だったのだが杞憂だったらしい。授業が終わるまで、こうして独り占めできるのだと思うと嬉しくて仕方なかった。
 ふー、と溜め息交じりの長い煙が空へと昇った。
「…おまえ、英語は力入れてやっとけよ。将来要る可能性が大いにあんだろうが」
 基礎が解ってねぇと厳しいぜ、と言葉を継がれて山本は訝しげに獄寺を見た。
「将来?」
 獄寺は横目に山本を見返した。
「プロ野球選手になるんじゃねえのか?…ずっと日本にいるつもりなら別に必要ねえけど、もっと先も目指してんだろ?」
 言われて、思わず目を丸くする。
「ああ…」
 じっと見つめる視線に気づいた獄寺が怪訝な顔をした。形の良い眉が片側だけ少し上がる。
「…んだよ」
「なんか今の、すげぇ嬉しい」
「なにが」
「だって俺、そういうのいっぺんも言ったことねえのに」
「?…言わなくても大体わかるだろ」
「へへ」
 それが嬉しいと、山本は満面の笑みを見せた。獄寺は気づいていないようだが、将来要る可能性が大いにあるとまで言ったのだ。本当にそうなれると思っていなければ出てこない言葉だろう。
 嬉しそうに笑う山本を見て、フィルターを咥えた獄寺の表情が少し曇る。獄寺の口から溜め息が零れるのを耳にすれば、自然と山本の笑顔も止んだ。


 小さな沈黙の後、獄寺は胸に抱えた複雑な心情を初めて山本へと吐き出した。
「………おまえのこと、どうしていいかわかんねえよ」



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