秋の夜風がそよそよとカーテンを揺らした。静まり返った夜の廊下を、コツ、コツ、とヒールの歩く音が聞こえる。
 近づいてくるそれに注意を配りながら夜の闇に向かって何かを言い、やがて男は窓枠に手をついて盛大な溜息を吐いた。

 ドアの前で足音がぴたりと止まったのだ―――タイムアウトだ。

 白衣を纏った男は渋い顔で闇に背を向け、そしてガラガラと保健室のドアが開いたと同時に、即座に穏やかな笑みを作ってみせた。現れたのはたおやかな美女だ。そっとドアを閉め、部屋に誰もいないのを注意深く確認した後、美女は男に尋ねた。
「隼人はもう帰ったわね?」
 ヴァリアーとの決戦が明日に決まった今、さすがに今日は身体を休めさせるために弟も早めに帰されただろう。そう読んだ美女の問いを、男は笑んで返した。
「ここから君の姿が見えた時はまさかとは思ったが…こんな夜にわざわざ俺に会いに来てくれたのか?」
「ええ、そうよ」
 だが返答とは裏腹にその声に甘さは微塵もない。しかし特に気にした風もなく、迎え入れるように腕を広げた男がビアンキに歩み寄っていく。
「それなら電話をくれれば俺から迎えに行ったのに…!さぁ、ここじゃ何だからこれからホテルにでも」
 その時、ヒュッと何かが頬を掠めて後ろの窓の木枠部分に突き刺さった。男の頬には細く赤い溝が刻まれ、僅かに血が滲んだ。見ればビアンキの指の間には木枠に刺さったものと同じものであろう、刃物のように鋭い円盤型のクッキーが挟まっている。
「いいえ。ここで死んでもらうわ、シャマル」
「オ…オイオイ、笑えねえ冗談だなベイビー」
 一体なんのマネだとシャマルは後退りした。その本気モードの瞳を見れば、熟練の笑みだって凍りついてしまう。
「冗談なんかじゃないわ、あなたは許し難い罪を犯したのよ」
「許し難い罪?…何のことだ」
 シャマルは疑問に眉を寄せた。思い巡らせてみても全く身に覚えがない。
(カワイ娘ちゃん関係、か…?俺はうまくやってるはずだが…いや、違うな)
 嫉妬の類ではないように感じる。そもそも恋人でもない以上、ビアンキにどうこう言う権利もないはずなのは明瞭だ。だとすると何だ?さっぱりわからなくて首を傾げていると、美女が徐に長い睫毛を伏せた。
「隼人が…」
「あ?ハヤト?」
 思わず怪訝に眉を寄せてしまう。疑問はますます深まるばかりで、さらには嫌な予感までしてくる。この少年の名前が出てくると大抵ロクなことがないのだ。そして、微かに涙を滲ませたビアンキの口から出てきたそれはあまりに強烈だった。

「隼人が、山本武の手に落ちたわ」
「…」

 シャマルは無言で青ざめた。複雑ながら妙な理解が半分、マジで?という驚き半分。ビアンキの反応からしてもその信憑性は高いと思われる。姉である彼女の心中を察すれば、掛ける言葉も出てこない。
 とりあえず落ち着け、とシャマルは軽く息を吐いた。
 まずここは順を追って、何故それで第三者の自分が殺されねばならないのか、その理由から明らかにしておきたいところだ。
「あー、…それで?それと俺に何の関係があるって言うんだ?」
 いやに落ち着いたその返答にピクリと耳を動かして、ビアンキは柳眉を上げた。
「知っていたのね…?隼人から相談でも受けていた?それとも、あなたが背中を押したのかしら」
「あー待て待て、俺は何も知らねえ!とんでもない誤解だ、それは」
 話せば解るとストップをかけるも、ビアンキは止まらない。むしろ一人で暴走し始めてしまった。
「やっぱりあの時に半殺しにしておけば良かったんだわ…」
「?」
(あの時…?つーか、これは俺のことじゃねえな)
 怖ろしい言葉を吐いて美女がきつく拳を握るのを目に、シャマルは冷や汗を掻く。
「隼人は、絶対に相手にするはずがないって思っていたのに…、嫌っていた、のに…料理だって…」
 だんだんと感情が高ぶってきているのが伝わってくる。吐き出される言葉は相手に聞かせるようなものではなく、完全に独り言だった。
 命を狙われた経緯もさっぱり分からないまま、独り言を止めたビアンキがまっすぐに男を睨みつけた。
 そして。

「あなたの影響だわ!そうとしか考えられないもの!!」

(ヒィィィィッ)
 何をどう考えてそうなったのか、怖ろしい極論をぶつけられてシャマルは心の中で悲鳴をあげた。
「俺の影響!?怖ろしいことを言わんでくれ!俺はゲイじゃない、カワイ娘ちゃん専門だって知ってるだろう!?」
「ええ、知っているわ。だからこそ思い当たることがあるはずよ!」
 沽券に関わる由々しき問題だ。男は誤解を解こうと必死になって声を張った。
「何もないさ!隼人にはむしろ女体…いや、女性の素晴らしさをとくと教え込んだくらいだ!」
「ホラごらんなさい、それだわ!」
「なにィ!?」
 誤解を解くための言葉だったのに、尻尾を掴んだとばかりに指をさされてシャマルは驚いた。

「どうせイヤらしい雑誌を見せてあれこれと卑猥なことを教えたんでしょう?しかも傍であなたの様な女タラシに釣られてくる女を見ていれば尚更だわ…純粋な隼人は、それで女を汚らわしいものだと思うようになったのよ!」
「…」

(そんなバカな)
 女体の神秘を教えたのは本当だし、城に女性を連れ込むのをしょっちゅう見られていたのも事実だが、そんな逆効果になるような教え方やトラウマなどを与えたようなことは断じて無い。
(そうだ実際、隼人はエロ話には興味津々に食いついてきたんだ…大体、それで女を受け付けねえとかもう真性のゲイとしか…)
 そこで(…ん?)と男は眉を顰めた。その少年は男と出来あがったというではないか。
(なんだ?どっちだあいつ…バイか?)
「私は」
 悶々と考えこむ男を横目にビアンキはじわりと瞳を滲ませた。
「隼人がいつか誰かを愛して結婚して…可愛い『義妹』が出来る日を楽しみにしてたの」
「?」
(今度は何の話だ)
 俺を置いて話を進めないでくれと思うも、最早止める気にもなれず。
「義妹を可愛がって仲良くなって…二人の幸せを見守って…隼人はきっと女心なんてわからないでしょうから、そんな時は、隼人を少し叱ってあげたりして…それなのに……」
 グッと溜められた小さな間が、恨み節をさらに重いものにした。
「許せないわ、Dr.シャマル」
 シャマルは溜息混じりに額を押さえた。

(ちょっと待て、落ち着け…そもそも、出だしっから論点がおかしいんだ)
 そう、話がズレ過ぎてる。まずは軌道修正だと静かに一息吐いて、シャマルは冷静な口調でビアンキに問い直した。

「カンベンしてくれ。大体、隼人を口説き落としたのは野球少年だろう?それで俺を殺して何の解決になるっていうんだ…完全に相手を間違ってないか?」
「…」
 反論をしてこないビアンキに男は片眉を上げた。今は少し興奮状態にあるのかもしれないが聡明な少女だ、わからないはずがない。相手が違うことなど、とうに解っているのだろう。
(なーるほどな)
 シャマルは、彼女が何故自分のところへこんな言い掛かりをつけに来たのかが少し解った気がした。
 沈黙の後、男の視線から逃げるように目を背けて、ビアンキが苦い顔で小さく零した。
「そうね…山本武には、会ったわ」
「でも、手を下せなかったんだろ」
「!」
 目線を上げた少女に、確信を持ち始めたシャマルは穏やかに笑んでみせた。
「下せるわけがねえさ、キミは誰よりも『愛』に生きる女だ」
「…」
 言い返さないのは、自分でも思うところがあるからで。
「山本に手を下せなかったのなら、つまりはそういうことだ…理由はキミ自身が一番良くわかってるんだろう?」
「…」
 そっと睫毛を伏せた少女が、小さく唇を噛んだのが見えた。

『隼人は、絶対に相手にするはずがないって思っていたのに…、嫌っていた、のに…』

 二人の恋に突っかかってるのではなく。殺し屋でありながら、ターゲットとした者に手を下せなかった己の甘さに憤っているわけでもない。
(…ったく、厄介なおぼっちゃんだぜアイツは)
 この少女が引っ掛かっているのは、嫌っていたはずの人間に弟がすっかり気を許したこと。
 自分が何年と掛けても成しえないことを、後から来て同じスタートラインに立ったはずの人間に叶えられてしまったのが悔しいのだ。
(まぁ、心を開かせた、って点に置いてのみだが…)
 恋愛と家族愛ではそもそも目指すゴールが違う。求める愛情そのものが違うから、山本と比べて嫉妬するのはお門違いな部分もあるのだが。
 それもおそらくは解っているのだろう。『愛』のために彼を殺せなかったのがその良い証拠だ。
 ただ、弟の心を開かせたという一点に置いて羨ましくて、悔しくてならないのだ。
 気持ちのやり場がなくて、どこにも気持ちをぶつけられなくて、もどかしくて堪らなくて…
(それでオジサンのところに来たってか)
 こと弟に関しては、ビアンキの心は城にいた幼い少女のままだ。
(可愛いねぇ)



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